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永倉新八の家紋と人物像-新選組二番隊隊士の生き残り-

   

新選組の二番隊組長として、さらには剣術の達人として知られている永倉新八。

彼は非常に情が厚い男としても有名で、新政府軍に追いやられる新選組の内情を何でもとりまとめています。
そして何より、後世に当時の新選組の状況を「新選組顛末記」でまとめている人物でもあります。

永倉新八ってどんな人物だったのか?
どんな人生を過ごしてきたいのか?
使っている家紋についてはどんな由来があるのか?

という順で永倉新八の魅力に迫っていきます。

 

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新選組・二番隊組長として活躍した永倉新八

永倉新八は、新選組隊士の中で幕末以降も生存した隊士の一人。写真中央が新八です。

 

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後に、新選組の活躍を伝える「新選組顛末記」を口述で遺したことでも知られています(執筆は息子さん)。

新選組は新政府軍に負けた幕府軍であったこと、京都時代に新政府軍の人物をたくさん斬ったことから怨みも買っており、彼らにまつわる史料はあまり残っていません。

その中で、「新選組顛末記」は当時の彼らを知る貴重な史料のひとつ。新選組時代はもちろん、後世でも彼が果たした役割はとても大きなものになっています。

 

芹沢鴨の暗殺から池田屋事変…新選組きっての剣の使い手

永倉新八は、新選組きっての剣の使い手。その実力は幼いころから片鱗をみせていたようで、18歳の頃には剣術を人に教えられるまでになっていました。

 

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池田屋事変で発揮される永倉新八の剣術

彼の剣の腕前が発揮されるのが、あの有名な「池田屋事変」です。池田屋事変は、当時京都守護職を任されていた「会津藩」の当主・松平容保と、後に最後の徳川将軍となる一橋慶喜の暗殺、孝明天皇を長州に連れ去るという計画を阻止したものです。

事前にこの計画を知った新選組は、池田屋に集まった尊王攘夷派を逮捕することを決意。この池田屋事変で、永倉新八は最初に突入した四名の一人に入っています。(近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助)

当初は逮捕の予定だったものの、攘夷派が大人しく引き下がるわけもなく、斬り合いに発展。しかし、藤堂平助が切りつけられて負傷し、沖田総司が肺病で離脱したため、一時は近藤と二人で闘いました。

新八は刀がボロボロになるまで戦い抜き、土方隊が到着するまでその場をしのいだのです。新八がいかに強い剣士であったか、このエピソードからも解ります。

 

旧友との別れ…情に厚かった新八

猛者である一方、彼は情に厚いと思わせるエピソードもあります。今も語られているエピソードをご紹介します。

 

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山南敬介に再脱走を提案する

試衛館時代から共にやってきた山南敬介が、近藤や土方と上手くいかなくなり脱走したときのこと。新選組において脱走はご法度なので、見つかれば切腹です。

山南は沖田総司に見つかって戻されたため、切腹をしなければなりませんでした。その時、永倉は山南に「もう一度脱走するように」と勧めています。決意が固い山南はこれを拒みましたが、新八は古くからやってきた仲間をどうしても助けたかったのでしょう。

 

油小路の変

新選組の参謀として活躍していた伊東甲子太郎が、薩摩藩の動向を探るため「御陵衛士」となって離脱したときのこと。あろうことか、伊東は薩摩藩に近藤勇の暗殺を持ちかけていました。

これは新選組から間者として御陵衛士に加わっていた斎藤一からもたらされた情報です。怒った近藤側は、伊東を酒で酔わせた上で油小路で暗殺。

その亡骸のために集まった他の御陵衛士たちを隊士たちで切りつけました。これが「油小路の変」ですね。

 

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引用:http://blog.livedoor.jp/shu123/

この時、集まった御陵衛士のなかに、試衛館時代から一緒だった藤堂平助がいます。気のいい青年で、隊士たちからも好かれていた平助のことを、近藤は「平助だけは助けてやりたい」と語ったそう。そして、新八も戦いの中で平助を逃がそうとしました。

しかし、その胸中を知らない他の隊士が平助を切りつけてしまい、彼はここで命を落とします。新選組は多くの人を斬っていますが、その中で自分たちも大切な仲間を何人も失いました。

目の前で山南の切腹と平助の死を見た新八の胸中は、どんなものだったのでしょうか。

 

近藤勇との決別、そして永遠の別れ…

試衛館時代から近藤勇と行動を共にし、局長と二番隊組長という関係を続けてきた新八。しかし、その生活の中で二人は度々意見の衝突があったようです。

そんな2人ですが、幕府軍が敗走し混乱する中で、意見の対立をめぐり袂をわかつことになります。

散り散りになった隊士たちをもう一度集め、会津に向かおうと進言する新八に、近藤は「家臣として仕えるなら行ってもいい」と言い放ちます。

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新八から近藤勇へ「自分たちは同志であって家臣ではない」

これに対し、新八は「自分たちは同志であって家臣ではない」と反発。そこで別れとなりました。この時に、十番隊組長だった原田左之助もともに離脱。

近藤はこの後流山で捕らえられ、斬首となるために今生の別れとなりました。ただ、新八は新選組の慰霊碑を作るために尽力していますし、心から近藤が憎いわけではなかったようにも感じられますね。墓碑には、新選組隊士数百名の名前が刻まれています。

 

永倉新八の家紋は「石持に松皮菱」

永倉新八が使用していた家紋は、こちらの「石持に松皮菱」。

 

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石持に松皮菱の家紋

新八が生まれた永倉家で使用していた家紋で、父親の墓石にはこの紋が彫られています。

 

幻と言われた新八の手記が発見されています

長い間、歴史研究家が探し求めていた新八の著書「浪士文久報国記事」が、近年になり発見されました。これは、新八自身が新選組について書き残したものです。

新選組関連の史料の中では第一級の史料と呼ばれるこの史料は、芹沢鴨暗殺や池田屋事変などが新八の手で語られており、謎が多い新選組を紐解く重要なものとなっています。

新選組が好きな方は是非ご一読ください!

 - 幕末・新選組の家紋