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徳川家康の家紋の意味・由来を画像付きで解説!印籠にも使われている三つ葉葵紋、徳川の家系図も!

   

人質生活から天下人へ~徳川家康ってどんな人物?

戦国時代の武将で、ひときわ知名度が高い徳川家康。織田信長豊臣秀吉と並んで「三英傑」とも呼ばれ、その名は非常に有名です。

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しかし、そんな家康が人質生活をしていたことはあまり知られていません。1542年に松平広忠のもとに生まれた家康は、6歳の時に織田信秀のもとで人質生活をおくることになりました。その後、今川氏のもとで人質として10年ほどの歳月をおくっており、人質としてかなりの年月を過ごしていることが解ります。

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信長との親しい関係→秀吉の家臣へ

そんな家康は、「桶狭間の戦い」をきっかけに信長と親しい存在となり、存在感をあらわに。信長が本能寺の変で討たれてからは、いったんは対立するものの豊臣秀吉の家臣となります。

ご存知のとおり、秀吉.は農民から武将になった数奇な経歴を持つ人物です。このため、秀吉にはなんの後ろ盾もない。身分の違いから、表向きは慕っていても秀吉を疎ましく思う武将はたくさんいました。

そこで、秀吉は自ら家康に頭を下げて臣下になってくれるように頼んだと言います。そうまでしなければならなかったほど、秀吉にとって家康は無視できない存在でした。

 

秀吉の没後、豹変する家康

しかし、その関係が続いたのも秀吉が亡くなるまで。秀吉が亡くなってから、家康は秀吉の部下であった石田三成に不満を持つ者と手を組み、あからさまに豊臣つぶしをけしかける様になりました。

と、書いてしまうと家康だけが悪いように思えますが、晩年の秀吉は実子ができたとたんに養子の秀次を切腹させるなど、各地の大名から藩閥されるような行動を続けていたのです。

 

大坂夏の陣で豊臣家が滅亡

秀吉の妻である淀殿と、息子である秀頼は家康の力を恐れて兵をあげるのは渋っていましたが、1614年にとうとう「大坂冬の陣」が勃発。その後、「大阪夏の陣」にて淀殿と秀頼は切腹し、豊臣家は滅亡しました。以後、徳川家は300年にわたり日本を統治することになります。

 

知ってる?徳川家康の名前の4変化

「竹千代」として誕生:家康の名前その1

徳川家康は、4度名前が変わっています。1542年、松平広忠の長男として生まれた家康につけられたのは「竹千代」という名前でした。この名前は、家康の幼名として有名ですね。名付け親は、「大浜称名寺」というお寺の住職でした。

 

今川義元から「松平二郎三郎元信」と命名される:家康の名前その2

その後に14歳で元服した竹千代は、今川義元より「松平二郎三郎元信」という名前をもらいました。今川義元の「元」の字が名前に入っているのは、大きくなってからも臣下でいるように…という思惑が含まれています。

 

弘治三年「松平蔵人元康」に:家康の名前その3

そして、弘治三年には「松平蔵人元康」と名乗りました。この時、家康はまだ今川家の人質です。初陣でいい成果を挙げたことが自信につながり、名前を変える決意をさせたと言われています。

 

信長と清州同盟を結び「松平蔵人家康」に:家康の名前その4

その今川家と手を切り、織田信長と「清州同盟」を結んだ家康は、「松平蔵人家康」と名乗るように。ここではじめて「家康」と名乗るようになります。「家康」と名乗った理由は、源氏軍の源義家の影響からと言われています。

その後、家康の父の夢だった三河統一を果たしたのち、「徳川家康」と改名しています。戦国大名は度々名前が変わることで知られていますが、人質生活が長かったこともあってか特に多くの改名を経験しています。

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徳川家の家系図

300年もの間、日本を統治してきた徳川家の家系図は豪華絢爛。実に見ごたえがあります。
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特に有名なのが、徳川家光。

iemitu 家光は、織田信長の姪(そして秀吉の養子)にあたる江を母にもち、乳母はあの春日局です。

どうやら性格が穏やかだったらしい家光は、何かと強気な母の江や、三男の国松ばかりをかわいがる父とは不仲だったという話があります。その影響から嫁選びに難儀し、春日局がかなりの骨を折ったとか。
子供の人生に親の接し方が影響するのは、今も昔も同じなようです。

「生類憐みの令」でおなじみ徳川綱吉。

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「生類憐みの令」で有名な綱吉は、この影響から「あまり賢くない殿様だった」と思われがちですが、「殺生を好まず、現在につながる法治国家を作り上げた名君」という評価もあるそう。「切り捨て御免」という言葉をご存知でしょうか?

武士が良く使う言葉ですが、権力をかさにたて「商人や町人が少しでも武家の人間を怒らせると、切り捨てられる」ということが頻繁におきていました。身分の違いから生まれる軋轢ですね。その様な事態に心を痛めたのか、綱吉は銃などの武器を登録制にします。

そして、武士たちを今の警察のような形に発展させる基盤づくりをしました。無益な殺傷を好まない綱吉だからこその政策ではないでしょうか?日本の法治国家の礎と言ってもいいでしょう。

 

天皇家の「和宮」を妻にした徳川家茂。

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家茂は天皇家の「和宮」を妻にしたことで有名な殿様です。幕府と朝廷の関係を良好にするためにという政略結婚で、家茂はまだ16歳という若さでした

しかし、家茂は何かと和宮を気遣い、心優しく接していた様です。そのこともあってか和宮は少しずつ夫に心を許し、亡くなるときは若くしてこの世を去った家茂の隣に埋葬してほしいと願い出ました。

家茂は長州遠征をする際、和宮に「お土産は何がいいか」と聞いています。和宮は「西陣織がいい」と答え、約束通り家茂は西陣織を買い求めました。しかし、体が弱かった家茂は江戸にもどることなく命を落としてしまいます。

 

和宮に西陣織を与えた家茂

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こちらがその西陣織です。家茂がいかに和宮を大切にしていたかがわかるエピソードですね。300年近く続いた徳川家ですが、征夷大将軍としては慶喜を最後に終わりを告げます。

明治時代の到来とともに、「幕府」はなくなり、征夷大将軍という職も消えることになりました。しかし現在も徳川家は健在で、ご子孫がきちんとその血を継ぎ、徳川家の活躍を後世に伝えていらっしゃいます。

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徳川家の家紋「葵紋」の意味・由来

徳川家と言えば、やはり有名なのは葵紋でしょう。葵紋は数多くありますが、家康が使用していたのはこちらの「徳川紋」と呼ばれるものです。

 

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「水戸黄門」でも、徳川家の葵紋をいれた印籠を手に「この紋どころが目に入らぬか!」というシーンが必ずあります。日本で有名な家紋のひとつですね。

 

葵紋の由来は「加茂神社の神紋」

 

この葵紋の由来は京都にある「加茂神社」にある神紋。「二葉葵/双葉葵」という紋です。
加茂神社と深い由来があることから、「加茂紋」と呼ばれることもあるとか。
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この神社に関わっている加茂氏と武家たちが強いつながりを持つようになり、そのことが家康がいた松平家も葵紋を使用するきっかけとなりました。

 

三つ葉葵紋は左三つ巴をまねて作られた?

あまりにも有名な「三つ葉葵紋」ですが、この家紋は「左三つ巴」という紋を参考に家康自身が作ったという説があります。それが本当なのかどうかははっきりしませんが、徳川家康を祀った「日光東照宮」にも「三つ巴紋」が使用されていますので、ありえない話ではなさそうです。

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こちらがその日光東照宮。非常に豪華な建築物として有名ですよね。

 

家康の葵紋へのこだわりが見える?「紫字葵紋付葵葉文様辻が花染羽織」

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家康がいかに「葵」にこだわっていたのかを知ることができるものとして「紫字葵紋付葵葉文様辻が花染羽織」があります。

こちらは尾張徳川家の4代目となる吉道の遺品ですが、着物の寸法などからして家康の遺品ではないか?と考えられているそう。もちろんはっきりしたことは解っていませんが、赤地に葵の葉が縫い込まれた非常に豪華な羽織です。これが家康のものであれば、家康の葵へのこだわりがよく伝わる品になります。

 

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三つ葉葵紋を使用できた家康の子孫(御三家と松平氏)

葵紋を使わせなかった家康・秀吉と家康の違いが家紋から見える

天下統一を果たした豊臣秀吉が、朝廷から「五七桐(ごしちのきり)」と呼ばれる家紋を譲り受けたことは非常に有名ですね。秀吉と言えば五七桐の家紋です。実は、豊臣家を倒した家康にも、朝廷は「五七桐の紋を使用するように」と要請しています。ここには、徳川家康を懐柔しようという朝廷の思惑が潜んでいました。

 

徳川家=葵紋を根付かせた家康

 

しかし、家康はこれを断り葵紋を使い続けます。さらに、同じ葵紋を使用していた武家に使用しないように命じ、「徳川家=葵紋」を根付かせようとしました。桐紋を多くの武家に下賜した秀吉との大きな違いです。

秀吉は、天下人である自分の桐紋を臣下に下賜することで懐柔しましたが、家康は逆に「自分の一族のみが使える家紋」という位置づけの方を選んだのです。

十八松平家などは使うのをやめた葵紋

葵紋の使用を許されたのは、徳川御三家(尾張徳川家・紀州徳川家・水戸徳川家)と、松平家の一部のみ。十四松平家(十八松平家)などは、それまで使用していた葵紋を使わず、他の紋に変えています。

 

※十四松平家(十八松平家)とは?
松平家は、三河地方をおさめていた豪族です。この十四松平家18代目にあたるのが家康で、家康の代で「徳川」を名乗るようになりました。
松平家には本家と分家を合わせて18の系統があり、これを「十八松平家」と呼んでいます。

松平家の中で、葵紋を使うことができたのは会津・越前松平家のみ。他はすべて他の紋にしたそうです。

会津・越前松平家が使用していた葵紋

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会津・越前松平家が使用していた葵紋はこちら。
葵紋でも、徳川家康が使用していたものとは少し違いがありますね。また、藤井松平家は葵紋から鳩酸草(かたばみ)紋に変更しています。

 

家康より三つ葉葵紋歴が長い本多家

徳川家の葵紋があまりに有名なので、隠れてしまいがちなのですが、実は徳川家より長く葵紋を使用している家に「本多家」があります。あの有名な本田忠勝の家ですね。本多家は松平家よりかなり前から「立ち葵」の家紋を使用しており、そのことは家康も知っていました。

本多家は家康の家臣ですが、長く「立ち葵」を使い続けている本多家の立場をおもんばかってのことでしょう。

 

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こちらが本多家の「立ち葵」。同じ葵紋でも、だいぶ印象が違います。

 

徳川家の象徴・葵紋が倒れた日

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自分の家紋を家臣にたくさん下賜した秀吉とちがい、家康は「徳川家だけが使える葵紋」にこだわりました。そこには「葵紋を徳川家の紋として印象付けたい」という思惑がありましたが、それは成功したと言えます。

しかし、家康が亡くなり数百年後。
徳川家最後の征夷大将軍となった慶喜の代で、その「家紋」が皮肉な結果を招いたことはあまりにも有名です。

戊辰戦争において、薩長軍率いる新政府軍が天皇家の紋である「十六葉菊」の御旗を使用したことから、徳川家は総崩れとなりました。

天皇家の紋が入った旗を持つ軍は「官軍」であり、それに傷をつけることは賊軍であることを意味するからです。幕府軍が闘っていたのは薩長の軍だったのに、いつの間にか敵は天皇に差し替えられてしまいました。

これは、天皇家の「十六葉菊」を使った薩長軍の作戦です。家康が築いた「葵紋=徳川家」という象徴は、皮肉にも「菊紋=天皇家」という象徴に負ける結果となりました

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