お役立ち!季節の耳より情報局

暮らしに役立つ様々な情報を厳選してお届けします!

松平忠吉の家紋と生涯|徳川2代目将軍秀忠の弟にあたる「忍城」城主

   

松平忠吉
 

松平忠吉は徳川家康の息子・家康が亡くなったあとに徳川二代目将軍となった徳川秀忠の弟です。側室をもらうことが当たり前で、異母兄弟がたくさんいることも多い戦国時代の中で、秀忠と忠吉は同じ母から生まれた兄弟。それだけに、この二人の絆はとても深かったようです。

 

スポンサードリンク

 

「のぼうの城」の舞台になった「忍城」の城主

秀吉・家康共闘ので北条氏を滅ぼした「小田原征伐」

織田信長が「本能寺の変」で討たれた後、天下統一に踏み出したのは豊臣秀吉でした。勢いのあった秀吉に全国の諸大名が従う中、関東の豪族である「北条氏」だけは対立関係を解くことはなく、秀吉に従いませんでした。そこで、秀吉は徳川家康と共に関東を攻め、北条氏を滅ぼします。これが「小田原征伐」という戦いです。

 

「小田原征伐」後の忠吉は「忍城」城主へ

この「小田原征伐」が終わり、無事に秀吉が天下統一を果たした後、忠吉は小田原氏が所有していた「忍城」を任されることになりました。この忍城一体は沼地だったそうで、ところどころに浮いている島同士をつないで城につなげるという作りで、当時としてはかなり強固な要塞だったそうです。周りが沼に囲まれていれば、安易に攻め入ることができませんからね。「小田原征伐」でも、秀吉はこの城だけは落とすことができなかったと伝えられています。

その城を任された忠吉ですから、おそらく秀吉からも父の家康からも信頼されていたのでしょう。

 

スポンサードリンク

 

家臣からの信頼も厚く、優秀な武将だった忠吉

忠吉は容姿が良く、さらに頭脳も明晰で、家臣たちからも大変に慕われていた武将だったと言います。徳川四天王の一人・井伊直政の娘の婿であったことでも知られ、その立場からしても二代目将軍・徳川秀忠にとっては頼りがいのある人物だったはずです。

多くの戦国大名の中で、265年も続く徳川幕府を作った父・家康の跡継ぎだった秀忠は、偉大すぎる父を持ったプレッシャーもあったに違いありません。その中で、同じ母から生まれた優秀な弟・忠吉の存在は大きな心の支えだったでしょう。

 

齢28歳でこの世を去った忠吉

しかし、忠吉は優秀な武将として今後を期待されながらも28歳という若さでこの世を去ってしまいました。弟の早すぎる死を、秀忠はとても悲しんだと伝えられています。忠吉には子がなく、弟である徳川義直が跡を継ぎました。

 

松平忠吉の家紋は「丸に三つ葵」

松平忠吉の家紋は、徳川家が使用していることで有名な「丸に三つ葵」です。

 

家紋 自分の家紋を家臣たちにどんどん分け与えた秀吉とちがい、家康は自分の家の家紋である「葵紋」の使用を制限していました。この家紋を使用しているということは、まぎれもない徳川家の一員であるという証です。

 

スポンサードリンク

 - 戦国武将の家紋