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宇喜多秀家の家紋「剣片喰」と生涯|前田利家の娘「豪姫」に愛され、岡山発展の礎を作った戦国武将

   

宇喜多秀家 岡山市の中央にある、漆塗りの黒いお城。見た目から「烏城」と呼ばれることもある岡山城の城主が、宇喜多秀家です。

 

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父は「岡山城の城主」宇喜多直家

宇喜多秀家は、1572年に備前(びぜん)の藩主の子として生まれました。父は宇喜多直家、岡山城の城主です。
当時の宇喜多家は、隣の安芸(広島)と関りを持っていましたが、直家の代で断絶。そして、勢力のあった織田信長と羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に仕えることになりました。

 

10歳の時、父が病気で亡くなり家督を継ぐ

秀家にとって、大きな転機が訪れたのは10歳のころ。秀家が10歳のとき、城主であった父が病気で亡くなってしまったのです。ここで羽柴秀吉が織田信長に仲介を行い、補佐を付けた上で秀家が家督を継ぎました。

 

信長、秀吉の家臣として活躍

宇喜多家は、この後も織田信長と羽柴秀吉の家臣として活躍します。羽柴秀吉は織田信長の命令で毛利攻めをしていたため、宇喜多家も家臣として出陣。毛利家がおさめていた中国地方の各地で戦をし、秀吉のために働きました。そして織田信長が本能寺の変で敗れた後も秀吉に変らぬ忠誠を誓い、秀吉が毛利家と和睦したあとは備前の位置から安芸の毛利氏を見張りました。

 

豊臣家からの信頼が厚かった

秀家は外様大名でありながら、秀吉の忠臣で豊臣家の重鎮となるまでに力を強めていたのです。秀吉の秀家への信頼はかなり厚いもので、秀家が元服した時には自らの「秀」の文字をおくるほど。さらに、九州征伐での活躍が認められ「豊臣」「羽柴」の姓も賜るなど、格別の扱いを受けていました。

 

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「宇喜多家騒動」が勃発

秀吉が北条氏を攻めた「小田原攻め」では宇喜多水軍を率いて活躍するなど、秀家は秀吉のもとで着々と実績を詰んでいきます。華々しい成長を遂げ、豊臣五大老と言われるほどに上り詰めた秀家ですが、やがて宇喜多家の運命を変えることになる騒動が起きます。有名な「宇喜多家騒動」です。

豊臣五大老

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徳川家康 前田利家 宇喜多秀家 上杉景勝 毛利輝元
 

豊臣五奉行

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石田三成 増田長盛 長束正家 浅野長政 前田玄以
 

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宇喜多家騒動が勃発

宇喜多家には、戸川達安・岡利勝という重臣がいました。両者は宇喜多家にとって非常に重要な人物で、宇喜多家がここまで大きくなったのはこの家臣たちの力添えがあったためです。中でも戸川達安は秀家の朝鮮出兵にも参加し、作戦を立てて秀家が戦果を挙げるきっかけを作りました。

事態は秀家が前田家の娘・豪姫と婚姻を結んだことからはじまります。力が強い前田家の家臣たちが、宇喜多家でも幅を利かせるようになり、もともといた宇喜多家重臣たちと対立してしまいました。最初は取り成し役がいて均衡を保っていましたが、その人物が亡くなると関係はますます悪化してしまいます。

 

中村次郎兵衛を排除を秀家に打診

そしてとうとう、重臣たちは前田家からきた「中村次郎兵衛」を排除するようにと秀家に申し入れました。次郎兵衛は経理などに明るく、秀家も重用していたためにこれを拒否。もちろん重臣たちとの関係は悪化。

この一連の騒動の原因を、戸川達安の責任と見た秀家は、達安の暗殺を企てます。しかし、これに待ったをかけたのが、宇喜多家で秀家と仲が悪かった宇喜多詮家でした。状況は悪化するばかりで、とうとう大谷吉継らが出て鎮圧しようとしましたが、これでも確執が収まらなかったために、徳川家康が直々に処断しました。

 

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宇喜多家は戸川家という優秀な重臣を失う

戸川家ら重臣たちは宇喜多家を出ることになり、秀家は家を支えて来てくれた大切な人物と優秀な軍を失います。

輝かしい栄光を築いてきた秀家ですが、この騒動をきっかけに兵力がかなり弱まり、やがては関ヶ原の敗北を迎えることになります(その重臣たちは、秀家のもとを去った後に徳川家に仕えました)。

 

関ヶ原の戦いで敗北~流罪へ

時代は流れ、徳川家康率いる「東軍」と石田三成率いる「西軍」の間で「関ヶ原の戦い」が勃発。お家騒動で優秀な人材を失った秀家は、浪人たちを集めてこの戦に参加し、三成の軍を支えたと言われています。

当初は圧倒的に「西軍有利」と言われていましたが、小早川秀秋の裏切りによって宇喜多軍はじめ西軍は壊滅。
裏切り者の秀秋を斬ろうと考えた秀秋ですが、家臣に引き留められて鹿児島の島津氏のもとへ落ち延びます。

 

秀家は八丈島への流刑に

島津家の別邸で守られていたものの、やがて島津氏が徳川家の家臣となると秀家をかばうことはできなくなります。秀家は徳川のもとへ戻され、八丈島への流刑を言い渡されました(※以下に詳細を記述)

息子たちと共に八丈島へ送られた秀家は、三個のおにぎりのうち一つを食べ、あとのふたつを子供たちに分けあたえるという貧しい生活を余儀なくされながらも、それから50年を生き83歳で亡くなりました。

 

前田利家の娘「豪姫」との結婚

 

「豪姫」
 

宇喜多秀家を語るときに、欠かせないのが妻の「豪姫」の存在です。豪姫は豊臣秀吉の友人であった前田利家の娘。しかし、子供がいなかった豊臣秀吉と寧々からの申し出があり、豊臣家の養子として大切に育てられました。
秀吉はたくさんの養子をとっていますが、親友の前田利家の娘ということで、豪姫のことはとても可愛がっていたに違いありません。その豪姫は、15歳の時に宇喜多秀家と結婚しました。

 

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ところが、「関ヶ原の戦い」では秀家が属した西軍が敗北。

戦のあとに各地を転々としていた秀家を守るために、豪姫は秀家の死亡工作までして守ろうとします。のちに秀家は船で薩摩(今の鹿児島県)へ落ち延びましたが、この直前に豪姫と過ごした数日間が、二人の永遠の別れになります。

徳川の厳しい探索の中で、秀家をかばって守り続けていた島津氏も守り切れなくなり、秀家は徳川のもとへと引き渡されます。

 

前田利家・島津義弘の嘆願でなんとか命は救われる秀家

秀吉の忠臣ですから本来であれば斬首になるところでしたが、前田氏や島津氏が徳川家に必死の嘆願をしたおかげで命は救われ、八丈島への流罪に。このとき、豪姫は「自分も一緒に流罪にしてほしい」と申し出たそうですが、それはかなうことはありませんでした。秀家と一緒に息子たちも流罪になったため、息子を手放す辛さもあったのでしょう。

 

生涯を秀家に捧げた豪姫

八丈島で困窮していた秀家のために、豪姫は後に幕府の許可をとったうえで金子などの仕送りを続け、宇喜多家の生活を助けました。二人はこうして縁をつなぎ続けながらも、会うことはかなわないままこの世を去ってしまいます。前田利家の娘となれば、秀家と別れたとしても嫁ぎ先はいくらでもあったでしょう。しかし豪姫は新しく婚姻を結ぶこともなく、生涯を宇喜多家に捧げています。

豪姫が亡くなったあとも前田家は宇喜多家が赦されるまで仕送りを続け、その助けもあってか宇喜多家は滅することなく、八丈島には今もご子孫が居住しています。

 

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宇喜多家の家紋は「剣片喰(けんかたばみ)」

宇喜多家の家紋は「剣片喰」という家紋です。

家紋
 

片喰(かたばみ)は日本に古くからあるとてもなじみのある植物。ハートの形をした葉が特徴で、それが家紋にもよく表れていますね。
片喰は環境が良くない場所でも華を咲かせるため、「逆境でも花を咲かせる」という意味から武将の家紋に多く使用されるようになりました。また、子孫を反映させるという意味もあり、そのことも演技の良さにつながっていたようです。

 

宇喜多秀家の旗門「児」

さて、宇喜多家と言えばこちらの紋が有名なのですが、

家紋
こちらは「家紋」ではなく「旗印」に使われていた紋です。中央の文字は今では使われていない漢字ですが、これは「児」のもとの文字。宇喜多家は太平記の中に出てくる「児島高徳」という人物の子孫であると言われ、そこからこの「児」を旗印に使用していたそうです。

 

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