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島津家次男で九州の猛将・島津義弘の生涯と家紋「丸に十文字」

   

九州最強の武将と言えば、島津家の島津義弘。天下統一を果たし、幕府を開いた徳川家康でさえ、島津義弘のことはとても恐れていたと言われるほどの武将です。
今回は若き頃から大活躍を見せる彼の武勇伝や家紋をお伝えします。

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強い!とにかく強かった島津義弘

shimazupic 島津義弘は、薩摩(現在の鹿児島県)に生まれた武将。19歳で初陣を飾った義弘は、なんと22歳という若さで敵の大将の首をとっています。

その強さが発揮されたのは、秀吉の朝鮮征伐でしょう。秀吉の命令で朝鮮征伐に赴いた島津義弘は、たった7000の兵で20万の兵を破るという活躍を見せます。

この数字はさすがにオーバーに書きすぎという説もありますが、こういった話が出ているほど義弘は強い武将であり、日本に「猛将」として良く知られていたということでしょう。

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関ケ原の戦いでの島津義弘

東軍への参加予定も西軍についた義弘

石田三成と徳川家康の間で起きた「関ヶ原の戦い」では、島津義弘は家康率いる東軍に参加する予定でした。しかし、伏見城に入ろうとしたところを発砲されてはいることができなくなったために、西軍につくことになってしまいました。

この話にも諸説ありますが、西軍につかせて島津義弘を倒したかった家康の戦略とも言われています。
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義弘が動く前に終わった関ケ原

ただ、「関ヶ原の戦い」は、島津義弘が動く前に終わってしまいました。

そこで退却をしようとしますが、混乱している戦場の様子をみた義弘は「西軍側のルートをいくよりも、東軍側を正面突破した方が早い」と考え、文字通り正面から戦って突破しました。

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西軍に配属するも領地を取られることなく許された武将

それでも、西軍なので家康にお咎めを受けるはずでしたが、これまでに多くの武勲を重ねてきたことや、義弘自身が多くの武将を助けてきたこともあり、「西軍に配属しながらも、領地をとられることもなくそのまま許された唯一の武将」になっています。

まさに武将の中の武将。それだけに人気も高く、今でも多くのファンがいます。

 

今上天皇は島津義弘の子孫

2017年時点で今上天皇となっている明仁天皇は、島津義弘の子孫としても知られています。昭和天皇の皇后であった香淳皇后は、島津義弘の血を引いている方でした。
島津義弘の血が天皇家にまでつながっているのは驚きですよね。

 

島津義弘の家紋は「丸に十字」

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島津義弘の家紋は「丸に十字」と呼ばれる家紋です。

ただ、この家紋は「江戸時代に入ってから島津家が使用するようになった」とも言われており、義弘の代で使用されていたかどうかは分かっていません。

 

十字紋

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「関が原合戦図屏風」という有名な絵画や、義弘をまつった神社には「十文字」が描かれています。
もしかすると、こちらが家紋なのかもしれませんね。どちらにしても、島津義弘の家紋には十字の形が使われていたことが解っていますが、本人がキリシタンであったということはないようです。

 

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