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立花道雪の家紋「大友抱き花杏葉」を解説!雷神と呼ばれた大友家の戦国武将

   

「関ヶ原の戦い」で、輿に乗って戦った武将として有名な大谷吉継。病気であった彼が、輿に乗って軍の采配をしていたことはあまりにも有名ですが、実はもう一人「輿に乗って戦に出ていた武将」がいます。それが、立花道雪(たちばな どうせつ)です。

戦国武将は誰もが波乱万丈な人生を歩んでいますが、この立花道雪も例外ではありません。ちょっと知ったらもっと知りたくなる、立花道雪の人生をまとめました。

 

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立花道雪の背景~大友家との関係に迫る

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さて、立花道雪の人生を語る前に、彼の名前について書いておかなければなりません。

「立花道雪」という名前は、実は彼の本名ではありません。それどころか、道雪は立花姓すら名乗ることなく生涯を終えています。ではどうして立花姓になったのか?それは後に紹介します。


大友家の一族戸次親家に生まれる

道雪は、「豊後国(今の大分県)」の「大友家」の一族・戸次親家というところに生まれました。そう、彼の名字は「戸次」なのです。

名前は「戸次鑑連」「戸次道雪」とされていますが、ここでは「道雪」で通します。

 

九州を収めていた大友宗麟

さて、九州の大友家といえば、歴史に詳しい人ならピンとくるでしょう。

大友家は、戦国時代に九州の豊後・筑後・豊前・肥前・肥後・筑前を治めたことがある名家。大友宗麟で有名ですね。

これだけの勢力を誇った家なので、九州では憧れの存在として良く知られていました。
大友家が使用していた「杏葉紋」は九州の大名の憧れでしたし、のちに大友宗麟を破った竜造寺隆信はこの家紋を奪って自分で使用していたくらいです。

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大友本家ではないが一族の一人だった道雪

道雪は、この大友家の本家ではありませんでしたが、一族の一人として生まれたのです。

道雪が小さなころに母は亡くなり、父も病がちでした。兄がいて、その兄が家を継ぐはずだったものの、こちらも病弱だったために早世。

道雪の初陣は14歳でしたが、自ら父の代わりに出陣し、2000の兵を指揮して見事に勝利しています。この道雪の活躍を見たあとに父は亡くなり、道雪が家督を継ぎました。

 

雷にうたれた道雪!半身不随になりながらも奮戦

そんな道雪ですが、10代もしくは30代のころに雷に打たれ、半身不随になっています。

逸話によれば、落ちてきた雷を刀で切った時に下半身不随になってしまったとか。おそらく、刀を振り上げたところに雷が落ちたのでは…と思いますが、ともあれ道雪は一命をとりとめます。

当時、雷に打たれて生きながらえるということは考えられないことでした。
その上、道雪は輿に乗って戦に出ては勝利を治めていたため、周囲の人々は彼を「雷神の化身」と呼ぶようになります。雷に打たれて生きながらえた上、戦で活躍すればそう呼ばれるのも当たり前ですよね。

※ただし、「落雷を受けた」ということ・輿に乗っていたこと、どちらも創作の可能性もあります。

 

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なぜ「立花」を名乗れなかったのか

九州の名門であった大友家ですが、後継者争いで揉めたことがありました(これを「二階崩れの変」と呼んでいます)。この時、道雪は大友宗麟側に立ち、支援します。

ところが、道雪の妻の父は別の人物を跡継ぎにと考えていたため、道雪は義父を罰して妻とも離縁。以後、大友宗麟の重臣として長く仕えることになります。

 

当時の大友家は毛利家と対立中

当時の大友家は、中四国で勢力を振るっていた毛利家と争っていました。

この最中、立花鑑載(たちばなあきとし)という人物が大友家に対して謀反を起こします。この時は赦されたのですが、あろうことか鑑載は再び離反して毛利家と手を組み、再び大友家を裏切ってしまいます。

さすがに、二度も裏切れば大友宗麟も許すわけにはいきません。結果、道雪が鑑載の城・立花山城を包囲し、鑑載を討ちます。

 

立花家は宗麟の怒りによって潰される

二度の裏切りをした立花家は、宗麟の怒りをかって取り潰されることになりました。

そして、その後の立花山城と立花家の立場を道雪が継ぐことになるのですが、宗麟は重臣である道雪に立花姓を名乗ることを許さなかったのです。

なので、道雪は立花を継いでも、立花姓を名乗ることはできませんでした。主への忠誠心が強かった道雪が、裏切り者の名を名乗りたくないと嫌ったともいわれています。

しかし、実際には「立花道雪」でも間違っていませんし、のちに立花家は復活もしていることから「立花道雪」の名前が知られているのです。

これが、道雪と立花姓の関係です。余談ですが、二度も宗麟を裏切った鑑載と宗麟の間には何があったのでしょうね?

 

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大友家の衰えと、島津家と道雪の死…

九州で大変な勢力を持っていた大友家ですが、宗麟が行った島津家との戦いで急速に力を弱めることになります。

当時、島津家には「戦国一強い」と言われた島津義家、「鬼島津」と呼ばれた島津義弘がいました。

島津家との戦いに反対するも聞き入れなかった宗麟

ゆえに、宗麟が「島津家と戦う」と言った時に道雪は反対したそうですが、宗麟は聞き入れなかったのです。

結果「耳川の戦い」で大友家は大敗。この戦いのとき、道雪は毛利家の抑えという役割だったために参加していませんが、大敗して多くの家臣を失った宗麟をどう見たのでしょう。

以後、力をなくした大友家からは多くの家臣たちが離反しますが、道雪は宗麟のもとを離れず、最後まで戦います。

 

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道雪、享年72歳

しかし、大友家のために戦う最中の陣中で病を発症。道雪は倒れ、そのまま亡くなります。享年72歳。

道雪の遺体を戦場から運び出すとき、敵も味方も関係なく亡骸が帰っていくのを見守ったとか。「雷神の化身」と言われ、主に忠義を尽くし、家臣たちにも礼を忘れなかった

道雪は、敵からも尊敬されていた武将だったのです。あの武田信玄が「道雪に会いたい」と言っていたと伝えられるくらいなので、多くの武将が道雪に憧れていたのでしょうね。

道雪が総大将となった戦は敗けたことがなく、それも彼の評価を高いものにしていました。

 

立花道雪の家紋

056 大友抱き花杏葉

 

道雪は、現代では「立花」と呼ばれているものの、本人は生涯この姓を名乗ることはありませんでした。大友家の庶流として生まれた道雪は、家紋も「抱き杏葉紋」を使用していたと考えられています。

しかし、道雪の後の子孫は「祇園守紋」を使用していたとか。
道雪の盟友・高橋紹運のところから養子に来た立花宗茂も、「祇園守紋」を使用しています。

この祇園守紋は京都・東山にある八坂神社の守りと言われているのですが、一方で「キリシタンが使用していた家紋である」という説もあります。

中央を見ると、確かに十字架のようにみえなくもありませんね。立花宗茂はキリシタン大名だったという説もあるので、もしかしたらそこからこの家紋を使用するようになったのかもしれません。

 

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