高橋紹運の家紋「大友抱き花杏葉」を解説!猛将と呼ばれた大友家の戦国武将

九州の名家・大友氏を支えた家臣の一人・高橋紹運。「たかはし じょううん」と読みます。九州の名将として知られ、さらに義に厚い武将であったことでも有名な高橋紹運についてまとめました。ちなみに、紹運の子孫には超有名人が二人いますので、ご注目ください。

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子孫の一人は有名なあの武将

高橋紹運は、九州の名門中の名門・大友家の家臣でした。大友家は、大分県を中心に勢力を強めた超名家で、大友家が使用していた「杏葉大友紋」は九州の武将たちから憧れの視線を集めたほど。

その家に仕えていた紹運ですから、もちろん実力は折り紙付きでした。

さて、ここにひとつ面白い逸話があります。紹運は、大友家の庶流(分家ですね)の武将・立花道雪と非常に仲が良かったそうです。この道雪は忠義もので知られており、紹運も真面目で誠実な人柄で有名だったので、なにかとウマがあったのでしょうね。その道雪には男児がなく、中が良かった紹運に「嫡男を養子にもらえないか」と頼みます。紹運の嫡男は能力が高かったため(しかも嫡男だから跡取りですしね)一度は断るのですが、何度も請われたためにとうとう紹運は嫡男を道雪の婿養子にやりました。この息子こそ、九州の猛将として名をとどろかせる立花宗茂です。この宗茂が、紹運の超有名な子孫の一人。宗茂の父ですから、紹運もそれは立派なはずですよね。

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壮絶な死を遂げた高橋紹運

優秀な武将だった紹運は、大友氏の家臣として戦で功績を挙げます。しかし、大友家は島津家との「耳川の戦い」で優秀な武将たちを多く失った上、領土も減らしてしまいました。それでも、紹運は道雪と共に大友家を見捨てることなく仕え続けます。途中で盟友・道雪が病で亡くなってしまいますが、そのあとも紹運は大友家から離れませんでした。

そんな紹運でしたが、大友家の凋落はもはや島津家に対抗するだけの力がありませんでした。紹運がいる岩屋城という城に、島津氏が侵攻します。島津氏側は、城の紹運に「降伏しろ」と勧告し、子供を出せば講和もすると持ち掛けるのですが、義に厚い紹運は大友氏を裏切ることをせず、拒否。城に残った763名の兵士とともに、戦います(奇しくも、この兵士の数はナムサンと読めますよね)。島津氏は半月にわたって城を攻めるものの、なかなか落とすことが出来ず、ついに総大将の島津忠長の指揮で城を攻めます。「もはやこれまで」と悟った紹運は、自ら城の高槽に上って切腹。39歳という若さでした。

島津氏側が紹運に降伏を勧告したのは、ひとえに島津氏が紹運の器量を認めていたためです。まだ若い武将でしたし、「ここで殺すのは惜しい」と思ったのでしょう。しかし、紹運は「主が盛んな時は忠誠を誓い、衰えれば裏切る。そういう武将も多いが、私は恩を忘れることはできない」と固辞し、島津氏側からも賞賛されました。結果的に紹運は恰幅して果てますが、亡骸の見聞をした島津氏側は「私たちはたぐいまれな名将を殺した。友達であれば最高の友になれた」といい、落涙するほど惜しんだとか。敵からも惜しまれるほどに、素晴らしい武将だったということです。

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その紹運の子孫は、内閣総理大臣にもなったあの人

紹運の死後、次男の立花直次は島津家に降伏します。父のこともあるためか、島津家では直次を殺すことをせず、軟禁という形をとりました。しかし、その後に豊臣秀吉が九州征伐をした来た時に解放されています。

秀吉は、解放された直次に対して父・紹運の活躍をほめたたえ、直次に「兄(養子にいった立花宗茂)と共に国を支えてほしい」と領土をあたえました。直次は兄のことを尊敬しており、戦場ではよく助け、兄弟仲は非常に良かったそうです。「関ヶ原の戦い」で西軍についたために領地は没収されてしまいますが、のちに徳川家康の子・秀忠に仕えるようになり、「大阪の陣」でも活躍しています。

やがて直次は46歳でこの世を去るのですが、子孫の女性が「麻生グループ」の創業者と結婚します。ここまで言ったらもうお分かりですよね?この二人の間に生まれた長男の子が、第92代内閣総理大臣となった麻生太郎氏です。紹運の子孫で、二人目の著名人はこの方。紹運の優秀さは、時を超えてまだ日本を動かしています。

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高橋紹運の家紋「鍋島杏葉紋」

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大友家が使用していた「抱き杏葉紋」も使用していたと言われていますが、定かではありません。この「抱き杏葉紋」は、大友家のシンボルともいえる家紋ですので、もしかしたら大友家が下賜して重臣の紹運に使用させていた可能性はあります。ただ、真相は分かりませんね。杏葉は、馬にかける金属や革製の装飾品のことで、日本でも古くから使用されてきました。杏葉紋は「茗荷紋」にも似ていますが、杏葉紋は植物ではないため葉や花が無いので、見分けのポイントとなっています。九州を中心とする大名家の他、武家では現在の大分県である豊後の大友氏、公家では中御門家や持明院家などに用いられました。杏葉紋は歴史が古いものの使用例は少なく、家紋としては2枚の葉が向かい合う「抱き」のデザインが多く存在しています。他には、丸の中に重なる杏葉を描いた丸に違い杏葉、花のように見える高野杏葉、円形のような三つ割り杏葉などがあります。

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kamon_r2_c2 織田木瓜 kamon_r2_c4大一大万大吉 kamon_r2_c6太閤桐 kamon_r2_c8水色桔梗

織田信長織田信雄

石田三成 豊臣秀吉 明智光秀山県昌景
kamon_r3_c2 竹に二羽飛び雀/上杉笹 kamon_r3_c4武田菱 kamon_r3_c6真田六文銭 kamon_r3_c8竹に雀/仙台笹
 上杉謙信上杉景勝伊達成実  武田信玄武田信繁武田勝頼安国寺恵瓊  真田幸村真田昌幸 伊達政宗
kamon_r4_c2蛇の目 kamon_r4_c4徳川葵 kamon_r4_c6黒田藤巴 kamon_r4_c8向い蝶
 加藤清正  徳川家康徳川秀忠  黒田官兵衛黒田長政 大谷 吉継
kamon_r5_c2
前田梅鉢/剣梅鉢
kamon_r5_c4一文字三星 kamon_r5_c6池田蝶 kamon_r5_c8足利二つ引き
 前田利家前田慶次  毛利元就毛利輝元  池田恒興池田輝政 今川義元
kamon_r6_c2丸に立ち葵 kamon_r6_c4九枚笹 kamon_r6_c6二頭立波 kamon_r6_c8 二つ雁金
本多忠勝 竹中半兵衛 斎藤道三 柴田勝家
040丸に竪木瓜 mori3三つ盛木瓜に剣花菱 hukushima福島沢瀉 069井伊橘
滝川一益 直江兼続 福島正則 井伊直虎井伊直政
turumaru鶴丸 丸に細桔梗丸に細桔梗 030丸に七つ片喰 067剣片喰
森蘭丸森長可 太田道灌 長宗我部元親 宇喜多秀家
073土佐柏 mitsukashiwa三つ柏 082.fw八咫烏 037平四つ目結
山内一豊 島左近 雑賀孫一 尼子晴久京極高次
barahujiniばら藤に井桁 家紋丸に違い鎌 029.fw 056大友抱き花杏葉
片倉小十郎 小早川秀秋 藤堂高虎松永久秀 大友宗麟高橋紹運立花道雪
yukinaga中結び祇園守 祇園守紋祇園守 042足利二つ引き 065対い鶴
小西行長 立花宗茂 足利尊氏足利義昭 蒲生氏郷
角立て七つ割り四ツ目結紋七つ割り隅立て四つ目 054細川九曜 家紋笹龍胆 039.fw丹羽直違
佐々成政 細川忠興
細川藤孝
源頼朝 丹羽長秀
丸に丸に片喰 070榊原源氏車 43.fw三つ盛り木瓜 katagiri
違い鷹の羽
酒井忠次 榊原康政 朝倉義景 片桐且元
家紋下がり藤 黒餅紋黒餅 家紋北条対い蝶 丸に二つ引き紋丸に二つ引き
加藤嘉明 黒田長政 北条早雲 最上義光
mittsu3三つ盛り亀甲に花菱 juji丸に十文字 047蜂須賀卍 家紋七曜
浅井長政 島津義弘島津貴久島津貴久島津義久 蜂須賀 小六(正勝) 高山右近九鬼嘉隆
tugarubotan津軽牡丹 033.fw北条鱗 046丸に上の字 tomoe右三つ巴
津軽為信 北条氏康北条氏政 村上義清村上武吉 結城秀康清水宗治山本勘助小早川隆景
家紋永楽銭 umehachi2梅鉢 050変わり十二日足 mitsuhiki丸に三つ引き
仙石秀久 筒井順慶 龍造寺隆信 吉川広家
家紋丸に違い鷹の羽 goshichikiri五七桐 ikomaguruma生駒車 083九条下がり藤
浅野幸長浅野長政 豊臣秀次斎藤義龍豊臣秀長 生駒正俊 本願寺顕如
ageha丸に揚羽蝶 tiyunisuzume吾亦紅/地楡に雀 家紋丸に三つ葵 家紋輪違い
平清盛 柳生宗矩 松平忠吉 脇坂安治
051鍋島花杏葉 家紋結城巴 ageha揚羽蝶 karahana唐花紋
鍋島勝茂 松平忠直 吉川元春 陶晴賢
%e5%ae%b6%e7%b4%8b抱き茗荷 satakekamon五本骨扇に月丸    
堀尾吉晴  佐竹義重    

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