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榊原康政の家紋の由来とは?家康の小姓から始まった徳川家の戦国武将人生に迫る

   

榊原康政は、「徳川四天王」「徳川三傑」などと呼ばれる家康の重臣のひとりで、家康が天下統一を果たすまで常に傍らで支えてきた人物です。

 

 

徳川四天王 酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政

徳川三傑 本多忠勝・榊原康政・井伊直政

 

徳川家康、そして徳川家を語る上で榊原康政の存在は欠かすことができません。
今回は徳川家康の家臣の中心であった榊原康政の家紋と彼の人生に迫ります。

 

 

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文字書きの才能を買われ家康の小姓となる榊原康政

幼いころから本が大好きで、字を書くことも得意だった康政は、その才能を買われて松平元康(のちの徳川家康)の小姓となります、才気あふれる康政は、時に家康の代筆をこなすなどの役割を果たしました。その後も家康の戦に付き添うなどして、家康を支えています。

康政自身も家康のことは高く評価していた様で、自分の名前から「康」の字を与えるなどして厚遇していました。
家康が織田信長の家臣となったあとも、康政は「姉川の戦い」「長篠の戦い」などの戦に家康と共に出向いています。

 

榊原康政
引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/

 

「姉川の戦い」では戦の才能も見せる榊原康政

特に彼の活躍が目立ったのは、浅井長政・朝倉義景とぶつかった「姉川の戦い」。
この戦いで、家康は織田信長と組んで浅井・朝倉と闘っているのですが、徳川軍が5000人の兵力なのに対し、朝倉軍は10000とかなり不利な状況でした。

そこで、康政は「朝倉軍の正面からぶつかるのではなく、側面から攻撃する」という案を進言し、徳川勝利のきっかけをつかんでいます。
家康の部下と言えば「本田忠勝」が非常に有名ですが、武勇では忠勝に劣っても戦略では忠勝以上の才を発揮しており、名実ともに家康の腹心と言えるでしょう。
家康が将軍となってからは徳川秀忠の老中として仕え、生涯を徳川家に捧げています。

 

「関ヶ原の戦い」で、家康の息子を庇った康政

石田三成率いる「西軍」と、徳川家康率いる「東軍」が激突した「関ヶ原の戦い」。

この戦いで、康政は家康の息子・秀忠の軍にいました。ところが、秀忠は真田昌幸(真田幸村の父)と戦っている最中であったこと、途中の天候が悪かったことから到着が遅れ、家康に怒られてしまいました。

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家康のみならず家康の息子からも認められる実力

この時に康政は秀忠のことを庇い、彼のとりなしで家康と秀忠が面会しています。自分をかばってくれたことがよほど嬉しかったのでしょう、秀忠はそのお礼として、水戸の25万石を康政に与えようとしました。

しかし、康政はこれを固辞。「水戸は江戸から遠い」「秀忠が戦に遅れた責任があり、褒美などもってのほか」という理由です。

 

家康からの信頼の証「誓いの証文」をもらう

これを聞いた家康はとても喜んだそうで、「徳川家がある限り、榊原家がある限り、反逆以外のことでは見捨てない」とう誓いの証文を康政に送っています。この証文は、康政がこの世を去ってから2度も榊原家を救っています。

秀忠はよほど康政を信頼していたのでしょう、康政が亡くなるときには医師を向かわせ、また家臣を見舞いにも行かせています。しかし、生涯を通して徳川家の重臣であった康政は、59歳でこの世を去りました。

 

榊原康政の家紋は「榊原源氏車」

榊原康政は、「榊原源氏車」という家紋を使用していました。

榊原源氏車 引用:http://www.tokyoisho.co.jp/event/number/028.html

この家紋は「平安時代の貴族たちが乗る車(のタイヤの部分)」をデザインしたものです。
車をモチーフにした家紋は非常に多いのですが、榊原家のものは区別され「榊原源氏車」と名付けられています。

 

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 - 戦国武将の家紋