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山内一豊の3つの家紋の由来とは?内助の功で有名な千代の夫の人生録

   

四国の大名と言えば長曾我部家が有名なのですが、あの高知城の主だったのは「山内一豊」です。大河ドラマ「功名が辻」の主人公だった千代の旦那さんですね。

千代の内助の功があまりに有名なので、一豊の人物像や功績についてはあまりクローズあっぷされないのですが、彼の人生と家紋について振り返ってみましょう。

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「三英傑」全員に仕えた山内一豊

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山内一豊は、「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」の三人の戦国武将に仕えた武将です。これだけで、すでに「先を見越す能力があった武将であったこと」が解るでしょう。

この時代を行き抜くには、時代の先を見て生き方を決める必要がありました。彼はそれができた武将なのです。

 

信長に一家を滅ぼされる山内一豊

 

1545年、一豊は岩倉・織田家の家臣であった山内家に誕生しました。

織田家とかかわりがあった家ですが、そのうちに織田信長と対立。信長の手によって一豊の山内家は滅ぼされてしまいました。一豊は父を失い、一族は散り散りに。一豊は色々な国を放浪する生活を強いられることになってしまったのです。

 

信長配下で後の秀吉に仕える山内一豊

 

しかし、何が起きるか解らないのが戦国時代。なんと、一豊は1568年より織田信長に仕え、後の豊臣秀吉となる「木下藤吉郎」のものとで働くことになるのです。自分の家を滅ぼした敵ともう一度手を結ぶ、こういった思いがけない話があるのは戦国時代ならではですね。

 

一豊は秀吉の家臣として大きな働きを見せ、初陣となった「姉川の戦い」をはじめ、多くの戦で功績を挙げています。その度に石高を与えられ、次第に力をつけていきました。

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内助の功に支えられ益々活躍する一豊

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そのうちに妻の千代を妻として迎え、彼女の内助の功に助けられながらますます活躍。信長のもとで行われる「馬揃え」の際に、いい馬を買うためのお金を持っていなかった一豊に、千代がへそくりだった十両を渡して大名としての面子を整えたのは有名な話です。

 

秀吉の後継者のはずだった秀次が謀反の疑いで切腹

 

こうして秀吉に認められた一豊は、秀吉の養子で後継者であった豊臣秀次の後見人をすることになりました。秀次のために力を尽くす一豊でしたが、ここでも運命のいたずらが。豊臣秀吉と側室・茶々の間に、実子の秀頼が生まれ、秀次の存在は非常に危ういものとなってしまったのです。

 

子供が生まれれば、その子に自分の跡を継がせたいと考えるのは世の常。もちろん、秀吉もそうでした。

やがて、秀次は謀反の疑いをかけられて切腹。あわせて、家臣や庇った人物も殺害されてしまいますが、一豊は「自分は関係ない」という立場を貫き、この処分を免れています。

 

関ケ原では家康率いる東軍へ

 

秀吉が亡くなったあとに起きた関ヶ原の戦いでは、時世を見て家康の東軍に参加。この時、一豊は自らの城を家康に差し出すとまで家康に言い、信頼を得ています。豊臣の家臣としてずっと生きてきた一豊が、ここで敵対する家康につくのは勇気がいったことでしょう。また、やはり時代を先読みしていなければできないことでもあります。

 

高知城の城主として余生を過ごす一豊

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戦のあとはその功績を認めた家康から土佐の国を与えられ、裏戸城に入ります。

初めての土佐藩主となった一豊は、高知城の築城に着手。以後、この城に住み続け60歳でこの世を去りました。

 

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山内一豊と長曾我部家との関係って?

土佐の大名と言えば、長曾我部元親が非常に有名です。となると、山内一豊と長曾我部元親の関係がどうなのか?が気になるところです。

 

関ケ原の戦い「西軍の長曾我部元親」VS「東軍の山内一豊」

実は、長曾我部家は「関ヶ原の戦い」で豊臣率いる西軍についています。

このため、家康に嫌われてしまい土佐を追われてしまいました。この後に山内一豊が土佐を任され、城に入った形となります。なので、山内家と長曾我部家が同時に存在したということはありません。

しかし、長曾我部家に仕えていた家臣たちは、簡単に一豊を認めることはしませんでした。

このため、一豊も自分たちの家臣は土佐の人間を遠ざけ、連れてきた家臣たちを頼りに政治をはじめます。とはいえ、いつまでも国のものといがみ合っているわけにはいきません。

 

相撲大会という名目で長曾我部家を一掃

 

 

そこで、一豊は長曾我部派の一掃を考えました。土佐の人間のために相撲大会をやるので、力に自信があるものは桂浜に来るようにとお触れを出します。相撲が好きな土佐の武士たちは、「相撲をやるなら見に行くか」と桂浜に集まります。

もちろん、これが罠。一豊はここで、鉄砲を使って集まった武士たちを撃ち殺させました。これで、反対派を一掃したのです。

なんとも酷い話ですが、これもまた戦国の世の常。今では、ここで殺害された長曾我部家の家臣たちの慰霊祭も実施されているそうです。

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山内家の家紋は3つ!なんとオリジナルの桐紋も

山内家の家紋は3つあります。それぞれ一つずつ紹介していきます。

 

土佐柏:山内一豊の家紋その1

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ひとつは、「土佐柏」。こちらの紋はもともと別の形をしていたそうですが、江戸時代になりこの形に定まりました。

ちなみに、日本企業の「三菱」をご存知でしょうか?ダイヤが三つ繫がっている様な形のロゴですね。

三菱商会は、土佐藩にいた岩崎弥太郎が当時の「九十九商会」を買い取ったことが始まりになっており、「スリーダイヤ」と呼ばれるロゴは、山内家の「土佐柏」に由来しています。

 

山内一文字」:山内一豊の家紋その2

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2つ目は、「山内一文字」の家紋です。

 

二つの「一」が重なっている形のロゴですが、上と下でカラーが逆になっています。これにもきちんと意味があって、「陰にも陽にも敵はいない」という趣旨が込められている

 

「桐紋」:山内一豊の家紋その3

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最後にご紹介するのは桐紋です。桐紋と言えば、豊臣秀吉が家臣に多く下賜していたことで知られていますが、山内家もそのひとつ。一豊は、秀吉から桐紋を下賜されています。

しかし、その後に独自のアレンジを加え他にはないデザインに。これは「土佐桐」と呼ばれています。もともとの桐紋と比べて、可愛らしいデザインになっています。

 

高知名物「カツオのタタキ」は一豊のカツオ禁止令からできた?

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高知に行ったら、一度は必ず口にする「カツオのタタキ」。これは、カツオの表面だけを焼いたもので、高知県の名物となっています。一豊の時代から、高知ではカツオを刺身で食べる風習がありました。しかし、それを見た一豊は「食中毒になるのではないか」と心配し、カツオを食べることを禁止してしまいます。

しかし、領民たちはカツオの表面をあぶって「カツオではありませんよ?」とごまかして食べ続けていたそう。これが、「カツオのタタキ」の誕生です。

高知の人は、明るくて「小さなことは気にしない!」というおおらかな心の持ち主が多いのですが、このエピソードから「当時から変わらない土佐人の人柄」が見えるような気がしますね。

 

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 - 戦国武将の家紋