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池田恒興の家紋と生涯|信長の乳母の子で蝶紋が似合う戦国武将

   

幼少期から信長と仲が良かった池田恒興

池田恒興は、信長の乳母だった「養徳院」の子です。それゆえに幼いころから信長と縁が深く、二人は非常に仲のいい間柄だったと言われています。信長は「放蕩息子」として知られ、若いころは「うつけ者」としてあまり良く言われていませんでしたが、この信長に付き合って一緒に遊んでいたのが恒興でした。

そんな彼の家紋とこれまでをまとめました。

池田恒興
 

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信長の横で実力を発揮する恒興

信長は、成長するとその才能をいかんなく発揮。もちろん、幼いころから信長に仕えていた恒興も信長に従い、「桶狭間の戦い」などに参加しており、後には徳川家の「姉川の戦い」でも活躍しています。

名実ともに信長の忠臣となった恒興ですが、信長は「本能寺の変」で明智光秀に殺害されてしまいます。この時、恒興はその明智光秀の指揮を受ける立場におり、信長の敵を討つことができるほどの力を持っていませんでした。その恒興を、光秀は自分の味方になるように誘います。

 

本能寺の変後には明智光秀に誘われるも

恒興にしてみれば、長年付き添った信長を殺した張本人に仕えることはできません。でも、反抗すれば信長亡き後にその力を手に入れた光秀に倒されるのは明白です。

 

信長を裏切れず秀吉に仕えることに

どうするかと悩んでいたところに、中国征伐から「中国大返し」をしてまで戻った羽柴秀吉が到着。秀吉は光秀を討ち、信長の無念を晴らしました。これにより、恒興は羽柴秀吉に仕えることを決めました。

 

長久手の戦いで家康に返り討ちにされる恒興

秀吉のもとで着々と功績を上げた恒興は、やがて秀吉と徳川家康の戦いとなる「長久手の戦い」に参加。12000という大軍を率いて戦いに挑んだ恒興ですが、秀吉と家康の軍は膠着状態を迎えます。これにいら立ったのか、恒興は家康軍の後手に回りこんで突く作戦を進言。秀吉は、しぶしぶではあるもののその作戦を了承しました。しかし、家康はその作戦を知り地の利を利用して恒興を迎え討ち、恒興は49歳でこの世を去りました。

 

池田恒興の家紋は「揚羽紋」

池田恒興の家紋は、「揚羽紋」と呼ばれる紋です。

家紋 見てのとおり、揚羽蝶をイメージした非常に優雅なデザインの家紋です。
一見すると、戦国武将にはそぐわないと思ってしまうほどに可憐な家紋です。

備前蝶(池田蝶)

もうひとつ、恒興が使っていた家紋も蝶の形をしていました。
こちらは「備前蝶」。

家紋
気になるのが、この「備前」という名称です。肥前は岡山にある地域のひとつで、池田光政が岡山藩城主になっています。この縁から「備前」を入れた「備前蝶」の名前が付けられたのかもしれません。ちなみに「池田蝶」とも呼ばれています。

上に紹介した「揚羽蝶」は他の大名も使っていますが、この備前蝶は名前からしても池田氏のみのものではないでしょうか。

 

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 - 戦国武将の家紋