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蜂須賀小六(正勝)の家紋と生涯|豊臣秀吉に捧げた戦国武将

   

蜂須賀小六(正勝)
 

その生涯を、豊臣秀吉にささげたことで知られるのが蜂須賀小六という戦国武将です。※正確には「蜂須賀正勝」という名前なのですが、ここでは小六で統一します。今回は蜂須賀小六の家紋とこれまでについて解説します

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蜂須賀小六ってどんな人?

尾張国に生まれた小六は、斎藤道三や織田信長といった武将に仕えていましたが、基本的に主を作らない「独立した武将」という立場をとっていたようです。

そんな小六ですが、何かのきっかけでその後に豊臣秀吉に仕えるようになりました。このきっかけについては諸説ありますが、秀吉は何らかの理由で蜂須賀家と縁があったと言われています。その縁から、小六は秀吉に仕えることになったとか。

いずれにせよ、小六は秀吉を生涯の主と決め、死ぬまで秀吉に忠誠を尽くしています。

 

国をもらうことよりも、秀吉と共にいることを優先した小六

秀吉が四国攻めを行ったあと、小六は四国の阿波(今の徳島県」)を与えられました。これは、阿波の隣にあった土佐(高知県)の武将・長曾我部元親をけん制するためだったと言います。秀吉としては、四国攻めに協力して阿波木津城を落とした小六を頼りたいという気持ちがあったのでしょう。

 

秀吉からのオファーを断る小六

しかし、小六はこれを丁重に断ります。阿波は、秀吉がいた場所からとても遠い国。武将として「国を任される」というのは他にない誉ですが、小六はそれよりも「秀吉の傍で働きたい」という気持ちを優先したのです。

 

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小六の息子「蜂須賀家政」が治めた阿波の国

これにより、阿波は小六ではなく小六の息子の蜂須賀家政が治めることになりました。小六が断っても、蜂須賀家の者におさめさせたあたりに、秀吉の気持ちがうかがえますね。四国征伐の次の年、小六は病がちになり、大阪城外の屋敷にて61歳で亡くなりました。

 

武勇に優れた武将であるという評価

小六は、木曽川沿いで力を伸ばしていた「川並衆」の一員であることから、その後の評価に対しても「武勇に優れている」というものが目立ちます。多くの媒体でも、どちらかと言われれば山賊に近いような姿で描かれることが多く、そのイメージが定着している感があります。

しかし、秀吉が戦後処理などをこの小六に任せているところをみても、武勇だけでなく頭脳的にも彼が優れた武将であったことは間違いありません。今後、彼の今までのイメージが覆るような作品をみてみたいものです。

 

蜂須賀小六の家紋は「丸に卍」

蜂須が小六が使用していた家紋は、「丸に卍」です。

家紋
 

これは文字を家紋にしたもので、仏教からきたものと言われています。

 

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 - 戦国武将の家紋