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雑賀孫一の家紋「八咫烏」を解説!鉄砲軍団で信長を苦しめた戦国武将

   

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082.fw八咫烏

 

 

雑賀孫市とは

「雑賀集」という言葉を聞いたことはありませんか?
戦国時代には、鉄砲を操り軍を勝利に導く奇跡の軍団がいました。それが「雑賀衆」と呼ばれる集団で、その雑賀衆を率いていたのが雑賀孫市です。
ゲーム「戦国BASARA」だと、両手に銃を持った女性キャラになって登場しているので、名前は割と知られているようです。

「雑賀衆を味方にすれば勝ち、敵にすれば負ける」とまで言われた雑賀衆の長・雑賀孫市の人物像に迫ります。

 

雑賀衆ってどんな集団なの?

ここで、雑賀衆がどんな集団なのかを紹介しましょう。
日本には「紀伊半島」という地域がありますよね。
紀伊半島にある和歌山県には、「紀の川」という川が流れているのですが、かつてこのあたりを拠点として活動していたのが「雑賀衆」という集団です。

解りにくいのですが、雑賀衆というのはひとつの集団ではなく、いくつかの小さな集団が集まったもの。
紀伊半島は瀬戸内海と太平洋に近いことから漁業や貿易に適していましたし、山には自然がたくさんあったので農業もさかんに行われていました。これらの集団を、それぞれまとめていたトップが集ったものが「雑賀衆」と考えて下さい。

そんな雑賀衆の運命を変えたのは、一丁の鉄砲でした。
鉄砲は、ポルトガルから種子島にやってきたのが初とされていますが、この時に入ってきた鉄砲は2丁。
※なんと、種子島側がが買った時は一丁一億円!高すぎますよね。
そのうち一丁が、とある人物から雑賀衆の一員に渡されたことが「雑賀衆と鉄砲」のはじまりでした。

持ち込まれた鉄砲を参考にしながら、雑賀衆は鉄砲をつくることに成功。
貿易によって「鉄砲の弾」の材料となる硝石を手に入れることにも成功し、鉄砲を量産していくのです。

もともと、各国の大名の依頼を受けては戦の手伝いをしてきた雑賀衆ですが、鉄砲を持ってからはさらにその名声が強まり、あらゆる戦で頼られる存在になるのです。

 

「本願寺」と一緒に織田信長と戦った雑賀衆・雑賀孫市

では、雑賀孫市はどういう人物なのでしょうか?
孫市の名前は「鈴木孫一」で、これは「雑賀衆」のなかの「雑賀党鈴木氏」という一族の有力者が継承していく名前だったようです。
また、「鈴木重秀」という武将であったとも言われていますが(これについては茂秀自身の自著に書いてある)、定かではありません。謎が多い人物です。
雑賀衆のリーダーかのように言われることも多いのですが、前述したように雑賀衆自体がいろいろな衆の集まりでしたので、どうやら「トップで率いていた」ということではないようですね。
「雑賀孫市」「鈴木孫一」「雑賀孫一」など、呼ばれ方も多々ありますが、ここでは「孫市」で統一しています。

雑賀孫市を有名にしたのは織田信長と「本願寺」の戦いです。
織田信長は、京都にある「本願寺」と戦うことになるのですが、この時に雑賀衆は本願寺側、織田信長の二手に分かれてそれぞれを支援しました。
なぜ双方についたのか?に関しては、どうやら内部で分裂があったようです。
でも、さすがに仲間と戦うことに躊躇いがあったのか、信長側についた雑賀衆は積極的に戦おうとしませんでした。対して、本願寺側についた雑賀衆は遠慮なく信長と戦ったようで、銃を用いた雑賀衆の戦闘能力に信長はかなりの手を焼いたと言われています。
この、「本願寺側についた雑賀衆にいたのが孫市。
雑賀衆が本願寺に協力したことが、信長VS本願寺の戦いを10年にも長引かせた要因にもなりました。
あの信長を10年手こずらせたところからも、雑賀衆がいかに優れた先頭集団だったのかが解ります。

分裂した雑賀衆は、それぞれ「信長革」「本願寺側」に分かれて戦うのですが、戦いが長引くにつれて雑賀衆同士の対立は決定的なものに。
信長も、いい加減10年も戦っていることにうんざりしたようで、「本願寺の味方をしている雑賀孫市を倒す」と決意。10万の大軍を率いて、孫市に襲い掛かりました。
孫市も負けずに織田軍を迎え撃つものの、10万という数は「敵を討っても討ってもわいてくる」という状態なので、結局は敗北。
そして、雑賀衆自体もふたつに分かれて争う状態が続きました。

 

豊臣政権下での雑賀衆滅亡

織田信長に負けてからの孫市の動向は、はっきりしていませんが、「本能寺の変」で織田信長が討ち死にすると、ふたたび表舞台に名前が出てくるようになります。
どうやら、「本能寺の変」のあとには豊臣秀吉のもとで働くようになったようですね。
そして、どうやら雑賀衆たちとは別行動を取るようになっていたフシがあります。

一方で、秀吉は雑賀衆の根本を揺るがすような改革を行います。
「太閤検地」を知っていますか?これは、各地でどのくらいのコメがとれるのかを記録し、それに応じた税金を納めるというシステムのことです。今の税金の形と似たようなものですね。

しかし、これをやられてしまうと雑賀衆は困ってしまうのです。
なぜなら、雑賀衆はこれらのルールを自分たちで決めて運営してきたからこそ、やってこれた民族だからです。
秀吉に勝手にルールを作られて、税金を納めるなんてとんでもない話でした。
でも、秀吉は自分が作ったルールで統治をすすめていたため、雑賀衆が独自に国を運営することは認めませんでした。それはそうです、今の日本の中に、もうひとつ国ができるようなものですからね。

対立していた雑賀衆たちも、これには団結して反発。
そんな時、秀吉と対立していた徳川家康と戦いをはじめ(「小牧・長久手の戦い」ですね)、雑賀衆は家康の側について秀吉軍とたたかいました。この時、孫一は秀吉の側についていたことが解っています。

戦の途中、家康は秀吉と講和を結んでしまい、雑賀衆は取り残される形になってしまいます。
秀吉は今度こそ雑賀衆を滅ぼすため、かつての信長と同じ10万の軍で進軍。これにはさすがの雑賀衆も勝てず、次々と敗北していきました。
途中、秀吉は部下となった雑賀孫市を雑賀衆に向かわせて説得を試みますが、もはや雑賀衆たちは孫市の言うことを聞き入れませんでした。
孫市と雑賀衆は完全に断絶状態となり、そして雑賀衆は秀吉の軍に負けて滅亡するのです。

孫市は、雑賀衆の説得に行く直前に「秀吉を裏切らない」という証として、子供を置いていきました。その子供は秀吉のもとで働くようになり、孫市自体がどうなったのかははっきりしていません。
おそらく秀吉がいる大阪にいたものと考えられていますが、雑賀に戻って暮らしたなど様々な説があります。

 

雑賀孫市の家紋

孫市の家紋は「八咫烏紋」。
「やたがらすもん」と読みます。
雑賀孫市の「雑賀」は、彼が住んでいた土地のことであって、本名は「鈴木」と考えられているため、この家紋は鈴木氏がしようしていた家紋ということになります。

信長、秀吉という二人の名武将と戦った孫市は、晩年はどう過ごしていたのでしょう。

参考サイト
http://kamurai.itspy.com/nobunaga/saiga.htm

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