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清水宗治の家紋と「切腹は武士の名誉」を定着させた彼の人生について

   

清水宗治
 

「武士の切腹は誉である」と言われ、実際に多くの武将たちが切腹でなくなっていますが、それを定着させたと言われているのが清水宗治です。

 

宗治は備中(今の岡山県)に生まれた武将で、かつてあった備中高松城というところの城主でした。清水家はもともと石川家というところの家臣でしたが、後に毛利家に臣従し、毛利元就の三男である小早川隆景の配下として活躍しています。

毛利氏は中国地方を平定した力のある武将でしたが、この平定にも石川家は大いに貢献しており、毛利家と石川家は強い絆で結ばれていました。

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秀吉との戦いのさなか、切腹して果てた宗治

誰もが天下統一を夢見ていた戦国時代。中でも織田信長の勢いはすさまじく、もはや天下統一直前というところまでいっていました。勢いに乗った信長は、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に中国攻めを支持します。つまり、毛利家との戦いです。

 

清水宗治VS秀吉

秀吉は宗治に対し、降伏すれば戦いが終わった後に一国を与えるという書状を送っていますが、宗治は固辞。これにより、宗治は秀吉と戦うことになります。この宗治のいた「備中高松城」というのは、とても強固なお城でよく知られていました。

この城を攻めるために、秀吉は「水攻め」を選択。毛利家はこの攻撃に対し宗治に援軍を送っていますが、一方で情勢を見て秀吉と和睦することはできないかと考えていました。

 

秀吉側の事態が急変。

本能寺の変で、明智光秀が織田信長を討ったのです。これを知った秀吉は、一刻も早く光秀を討つために「宗平が切腹すれば、兵士たちは助ける」と交渉を持ち込みました。信長の死が知れ渡る前に、宗治を降伏させて光秀を討ちたかったのでしょう。

 

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兵士を助けるため自ら切腹を選ぶ宗治

もはや勝てる見込みがないと悟った宗治は、秀吉の条件通り切腹。この切腹があまりに潔く、腹の切り方も見事であったことから、「切腹は武士の誉」として長く支持されるようになります。江戸時代になってもこの考え方が根付いていたことを見ると、宗治の死にざまが後世に影響を与えたとも言えます。享年46.

 

清水宗治の家紋は「右三つ巴紋」、しかし諸説あり

清水宗治の家紋は「右三つ巴紋」です。水が渦を起こす様子を家紋にしたものです。

 

家紋
 

ただ、肖像画にはこの「右三つ巴紋」を三つ重ねた「三つ盛り三つ巴紋」が描かれていることもあるようで、こちらも一緒に使用していた可能性があります。

 

家紋
 

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 - 戦国武将の家紋