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毛利元就の家紋を画像付きで解説!長門沢瀉、五七桐も替紋で使った戦国武将

   

毛利元就
 

名だたる戦国武将の中で、「智略」でのし上がったのが毛利元就です。どんな武将なのか、彼も家紋と一緒に見ていきましょう。

 

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幼いころは貧しい生活を強いられた毛利元就

毛利元就は、「安芸(広島)」を治める毛利家の次男として生まれました。次男なのでもともとは家督を継ぐ予定はなかったのです。そんな元就ですが、領主である父が亡くなると後見人に裏切られ、城を追い出されてしまいました。荒れ果てた家で過ごすようになった元就は、その貧しさから「乞食若様」などと呼ばれていたそうで、苦労がしのばれます。

 

亡き父の継母に支えられた元就

ですが、元就にとって救いだったのは「亡き父の継母が支えてくれたこと」でした。継母は幼い元就を不憫に思い、故郷に帰ることも別なところに嫁ぐこともせず、元就を大切に守ってくれたのです。この継母は、朝になると朝日に向かって念仏を唱えていたそうで、元就もそれを受け継ぎ、生涯にわたって守り続けたそうです。

 

兄の死から家督相続へ

さて、毛利家は元就の兄・興元が継いでいましたが、興元も父と同じ「アルコール中毒」で他界してしまいました。これにより、毛利家は興元の嫡男が継ぎましたが、なんと後見人を元就が務めることになったのです。

 

毛利家親族の吉川家が武田元繁に攻められる

その時、毛利家の親族に当たる吉川家という家が安芸武田氏当主の武田元繁に攻められてしまいます。まだ幼い興元のかわりに、元就が出陣。そして、敵の大将・武田元繁の首をとるという活躍をみせました。なんと、元就はこれが初陣でした。

 

強かった武田元繁を初陣で破った元就 → 大内家に使える

武田元繁は戦に強くて有名な武将だったため、それを初陣で破った元就の存在は、世間を大変に驚かせたと言います。これをきっかけに、元就は大内家という大名に仕えるようになりました。

 

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兄他界により毛利家の家督になるも尼子家と争う

amagoharuhisa 毛利元就のライバル「尼子晴久」
尼子晴久の家紋「平四ツ目結」と毛利元就のライバル戦国武将の生涯を解説!
ところが、家督を継いだ兄の子も幼くして他界。元就の優秀さを見抜いた周囲は、元就が毛利家を継いでくれるようにと推薦し、元就が家督を継ぎました。大名・毛利元就の誕生です。この時27歳。が、これに猛反対したのが尼子家でした。元就と尼子家は対立。ここから、元就と尼子家の戦いがはじまります(のちに、尼子家は滅亡しています)。

 

他に使われないようにするには、自分が強くなるしかない

元就は、他の武将のように「天下統一をしたい」という思いよりも、「毛利家を守りたい」という思いが強かったふしがあります。「出雲遠征」という戦いで手痛い敗北をした元就は、その後に積極的に戦をして勢力を拡大しています。これは「毛利家を守るためには毛利家を強くしなければならない」という覚悟のあらわれでしょう。

 

とてつもない毛利元就ファミリー

名前を見るだけでも歴史の教科書に出てくる戦国武将ばかりの毛利元就ファミリー。
中でも注目なのが彼らの孫や養子にあたる武将の関ケ原の戦いでの立ち位置です。

長男の隆元の孫にあたる毛利輝元は関ケ原で石田三成率いる西軍の総大将に、
そして次男元春の孫になる吉川広家は東軍の家康軍に、
三男の小早川隆景の養子の秀秋は三成を裏切って家康側につき関ヶ原の戦いを東軍勝利に導いた立役者!


 
長男 次男 三男
「毛利隆元」の画像検索結果毛利隆元 吉川元春の家紋吉川元春 小早川隆景小早川隆景
↓隆元の孫↓ ↓元春の孫↓ ↓隆景の養子↓
毛利輝元毛利輝元 吉川広家吉川広家 小早川秀秋小早川秀秋

関ケ原の戦いで見る家紋1600年 関ケ原の戦いで見る戦国武将の家紋

 

婚姻関係で毛利家を強化した元就

まず、元就がやったことは婚姻関係で味方を増やすことでした。非常に強い力を持っていた吉川家の娘を娶り、さらに吉川家には元就の姉を嫁がせました。(吉川家には後に元就の次男・元春が養子にいっており、その息子・広家が「関ヶ原の戦い」で毛利輝元が家督だった毛利家を救っています。不思議な縁ですね)。

 

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毛利家3男隆景が小早川家を継ぐことに

さらに、強力な水軍を持っていることで知られた小早川家を三男の隆景が継ぎました。隆景は元就の頭の良さを継いだ優秀な武将で、小早川家の水軍を使って元就の片腕となり働きます。こうして、元就は子供たちと一緒に毛利家の地盤を見事に固めていきました。

 

厳島の戦いで発揮された元就の「智略」

後に勃発した「厳島の戦い」では、元就の「智略」がよく伺えます。この戦いでは、毛利軍が4000の兵だったのに対し敵の陶晴賢は20000という軍勢でした。圧倒的に毛利軍が不利だったのです。そこで、元就は手を打ちます。

 

スパイを通じた作戦が勝利への布石となった

わざと厳島に城をつくり、「こんなものを作って失敗だった。私の目も曇ってしまった」と言ったとスパイを通じて相手に伝えさせたのです。「城の造りがもろくて、これを攻められたら負ける」とわざわざ相手に言ったのです。
さらに、相手の性格が直情型であることを知った元就は、送り込んだ家臣たちにわざと相手を煽るようなことを言わせ、相手を大いに怒らせました。

元就のことをよく知っている相手方の人物が殺されるように仕向けたり、水軍を買収したり、戦に勝つために智略を尽くして相手を迎え討ちました。

元就の作戦にまんまとはまった陶晴賢

まんまと元就にのせられてしまった陶晴賢は、元就の思惑通り厳島に20000の軍勢で押し寄せました。しかし、狭い厳島では大群であったことがかえって「思うように動けない」という状態になり、元就は見事に相手を破っています。元就がいかに頭にいい武将だったか、勝つために智略を駆使する武将だったかがわかるでしょう。この戦いの勝利をきっかけに、元就は中国地方の平定をすすめ、やがて中国地方を総べる大名にまでなったのです。

 

毛利元就と言えば「三本の矢」

毛利元就と言えば、3人の子供たちに「三本の矢」の教えを説いたことで有名です。矢は一本だと簡単におれてしまいますが、三本重ねればなかなか折れません。その例を挙げて、「一人では難しくても、三人集まれば折れない」ということを解いたのです。

 

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家督を継ぐ際に弟を殺害した元就だったが本当は

実は、元就は家督相続をする時に弟を殺害しています。自分が家督を相続するためには、弟でさえも殺すしかない。これは戦国時代の倣いであり、そうやってのし上がった戦国武将はたくさんいます。あの伊達政宗も弟を殺していますし、武田信玄は父を追い出しています。

でも、元就は弟を殺したということがよほど辛かったのでしょう。子供達には「三人で協力し合って毛利家を守ること」を教えたかったに違いありません。

 

毛利元就の家紋「長門三ツ星」

 

家紋
 

毛利元就と言ったら長門三ツ星家紋でしょう。この家紋は、三つの星に「一」を加えた形の家紋です。
星は、戦国大名から「軍神」として信仰されていた将軍星だとか。

 

替紋は「長門沢瀉(ながとおもだか)」

 

家紋
 

「替紋」として使用していたのは「長門沢瀉紋」です。「沢瀉」という花は、昔から勝利に縁があると言われていました。その沢瀉に、やはり勝利を意味する無視と言われたトンボが止まった姿を家紋にしたそうです。

五七桐紋

 

家紋
 

正親町天皇から陸奥守に任ぜられたときに下賜されたと言われています。

 

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