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上杉謙信の家紋竹に二羽飛び雀」の由来を画像付きで解説!上杉笹のルーツに迫る

   

上杉謙信と言われると何を思い浮かべますか?

武田信玄とのライバル関係、大河ドラマ、戦に勝ち続けた戦国武将など、色々なイメージがあります。
特に2007年に放送された大河ドラマ「風林火山」ではGacktが演じたことで若い女性からも話題を集めました。

 

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今回は上杉謙信の家紋についてスポットを当てていきます。上杉謙信の家紋としては竹に二羽飛び雀の「上杉笹」が有名ですが、それ以外にも五七の桐も使っています。

なぜ上杉謙信は「長尾家」出身の人物なのになぜ、上杉姓を名乗っているのか?
なぜ天王家の家紋である五七の桐紋を使えるようになったのか?

など、上杉謙信のこれまでの生い立ちや熱い戦を広げたライバル武田信玄との関係も含めて、彼が使っていた2つの家紋の由来・意味について解説していきます。

 

上杉謙信ってどんな人物?

上杉謙信の画像

複雑な家庭で育った上杉謙信

この上杉謙信ですが、実は非常に複雑な家に生まれています。謙信は、上杉家の家臣である「長尾為景」の子として産まれました。

上杉なのに長尾家生まれって?と思いますよね。そうなんです、実は謙信は上杉家に生まれたのではないのです。ちなみに長男でもなく四男です。

 

上杉謙信がお坊さんになっていた!?

「長尾虎千代」と名付けられた謙信は、長尾家を継ぐ必要もなかったので、小さいころからお寺で奉公をしていました。何事もなければ、謙信はこのままお寺でお坊さんになってもおかしくなかったのです。しかし、彼の運命がそれを許しませんでした。

謙信が15歳になり、元服をして「景虎」と名乗ったころ、長尾家は三つに分かれてしょっちゅうもめ事を起こしていたのです。また、越後国人衆が造反するなど家も国も混乱の真っただ中。

 

15歳の初陣で見事勝利

そこで、長尾家を継いだ謙信の兄・晴景がことを収めようとしましたが、身体の弱い晴景では鎮圧することができませんでした。その時に、引き出されたのが謙信です。
若干15歳であった謙信でしたが、敵たちを攻め落とし初陣を勝利で飾ります。この快挙は、越後に広く知れ渡ることになりました。

 

家督相続~上杉謙信へ

 

上杉謙信の銅像画像
 

家臣の黒田秀忠の謀反で兄が殺害される

混乱する越後の国を鎮めるために、謙信は何度も兵を挙げます。そんなとき、長尾家の家臣である黒田秀忠が謀反を起こしました。黒田はこの謀反で、謙信の兄の一人を殺害しています。

この事態をみた謙信は、晴景の元に戻りすぐに黒田家に攻め入りました。勢いを見た黒田家は降伏し事なきを得たのですが、なんと黒田家は翌年にもう一度謀反を起こしてしまうのです。

 

二度の裏切りは絶対に許さない上杉謙信

一度目は許した謙信でしたが、降伏したにも関わらずまた裏切りを図った黒田家を許さず、兄と共に黒田家を滅ぼします。一度目は許すところも謙信らしいですが、二度目の裏切りは決して許さないところにも謙信らしさが漂うエピソードです。

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長尾家の当主に!越後の将からの歓迎

その後、晴景と家督をめぐり険悪な関係となりましたが、謙信が子供がいなかった晴景の養子になることで和解。謙信は長尾家の当主となり、越後の将から大変な歓迎を受けました、この時、謙信は19歳。
5年後に兄の晴景が42歳で亡くなると、謙信は越後の領主としてさらに地位を確固なものにしました。

1561年、謙信は「山内上杉家」の家督を継ぐことになり、「上杉政虎」と名乗るようになります。ここで、やっと上杉を名乗ることになるわけですね。同じ年に足利義輝から「輝」の文字をもらい、「上杉輝虎」となりました。

 

「謙信」は本名ではなく法名です

「上杉謙信」という名称があまりに有名ですが、実は「謙信」は法名です。法名とは仏門に入ったものがもらう名前のこと。

謙信は1560年に入道し、この時に「謙信」という法名をもらっています。なので、実は実名は「上杉輝虎」が正しいです。でも、「上杉謙信」の方がもう馴染み深いですよね。

 

因縁の相手、武田信玄~5度にわたる「川中島の戦い」

 

上杉謙信川中島の戦い画像
 

上杉謙信と言えば、ライバルは武田信玄。よく言われていることですよね。なぜライバルと言われるのかと言うと、なんとこの2人は5度にわたって「川中島の戦い」を繰り広げているのです。一回目の布施の戦いから見ていきましょう。

 

戦いのきっかけは武田信玄の信濃進出「布施の戦い」

きっかけは、甲斐(山梨県)の武田信玄が、信濃(長野県)に攻め入ったこと。信玄に領地をとられた信濃の武将たちが「とられた領地を取り返してもらえないか」と謙信に頼みました。謙信は「何の理由もなく、領地をとるような真似は許せない」と怒り、承諾。

信玄に領地を帰すように文を送りましたが、当然のことながら信玄は返しません。ここで、最初の「川中島の闘い」が勃発します。1953年、謙信が24歳の時でした。

「布施の戦い」と呼ばれるこの戦いは、まず謙信側が武田勢を攻撃。武田勢はいったん引きますが、夜襲を仕掛けて攻撃します。が、その後すぐに武田勢も謙信側も帰国しています。

 

2度目の戦い「犀川の戦い」

その2年後の1555年、ふたたび両者は合いまみえます。なんと、川を挟んで200日もの間にらみ合いを続けましたが、今川義元の仲介により両軍とも撤退。これが二度目の川中島の戦いです(犀川の戦いとも呼ばれています)。

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3度目の戦い「川中島の戦い」

三度目の川中島の戦いは、1557年に勃発。この戦いで、謙信は上杉勢の城を次々とおとしましたが、こちらも今川義元の仲介により両軍が撤退しています。

 

4度目の戦い「激化する川中島の戦い」

そして、四度目の川中島の戦い。1561年に起きたこの戦いは、川中島の戦いの中でいちばん激しいものでした。この戦いでは、激しさのあまり両軍ともかなりの損害を出し、互いに多くの家臣を失っています。

やはり両者の間で決着はついていませんが、戦局をみれば前半は上杉家の勝ち。そして後半は武田家の勝ちと言われているそう。この戦いで、武田信玄の弟である武田信繁も命を落としています

ただ、激しい戦いであったことは確かであるものの、この戦いについての具体的な記述は「甲陽軍艦」などの物語に頼るしかなく、実際のところは不明。ただ、エピソードとしてこの戦いで謙信と信玄が一騎打ちをしたという話しが残っています。

 

最後5度目の戦い「決着つかずの川中島の戦い」

最後の川中島の戦いが起きたのは、1564年。謙信が35歳の時でした。

この戦いをもってしても両者の決着はつかず、1573年に武田信玄が亡くなり2人の戦いは永遠に引き分けのままとなっています。2人の軍師が何度もぶつかりあい、それでも決着がつかなかったところにロマンを感じますね。

 

竹に二羽飛び雀(上杉笹)紋:上杉謙信の家紋の意味・由来について

上杉謙信と言えば、「竹に二羽飛び雀」が非常に有名ですよね。この家紋は、「上杉笹」と呼ばれるほどに上杉家に定着しています。謙信は上杉家より家譜を譲られていますが、その時に一緒にこの家紋も受け取っています。

上杉謙信竹に雀の画像
 

ちなみに、上杉家は伊達政宗の先祖にこの「竹に雀」の紋をおくっており、形は違いますが伊達家の家紋も「竹に雀」の紋になります。有名なこちらの紋ですね。

 

竹に雀紋の画像

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天皇家から下賜された「五七桐」の家紋

もうひとつ、上杉謙信は「五七桐」と呼ばれる家紋を所有しています。
上杉謙信の五七の桐紋画像
あまりに有名すぎるこの家紋は、当時の天皇家の象徴とも言われる家紋でした(菊紋もそうですね)。
後に豊臣秀吉もこの家紋を天皇から下賜され、自らも伊達政宗などの臣下に渡しています。

 

上杉謙信が五七の桐を使える理由

さて、どうして謙信がこの五七桐の家紋を使用しているのでしょう?それは、謙信が天皇に二度謁見していることが関わっていると言われています。

謙信が19歳で家督を継いだとき、真っ先に行ったのが「そのことを朝廷に報告する」ということでした。謙信は、後奈良天皇に「従五以下」「弾正少弼(だんじょうしょうひつ)」の地位をいただいているので、そのお礼を直接言いたいとも考えていた様です。

 

天皇に会うことが困難だった時代背景

この時代、国のあるじが兵を率いて天皇に会いに行くというのは大変なことでした。近隣の者に邪魔されることもありましたし、上京したとしても天皇に会う以外のメリットがないため、避ける諸大名はとても多かったのです。戦国時代はあちこちで軋轢が起きていましたので、それどころではなかったという現実もありました。

こういった状況の中で、天皇の力が低くなっていたことも原因のひとつと言われています。しかし、謙信は「義」を非常に重んじる武将でした。「きちんと朝廷に報告してこそ」と考えた謙信は、その道中が敵陣のなかを進む危険なものと解っていて上洛を決意。

 

1度目の天皇への謁見:後奈良天皇が杯と御剣を与える

兵を率いて上洛した謙信は、無事に後奈良天皇に謁見。このことを大いに喜んだ後奈良天皇は、謙信に杯と御剣(のちに「瓜実の御剣」と呼ばれる)を謙信に与えています。

 

2度目の天皇への謁見:大親町天皇が従四位・近衛少将を与える

二度目の上洛は、将軍・足利義輝の要請を請けての上洛です。謙信が上洛したのが1559年の4月27日ですが、この後5月1日に大親町天皇(おおぜきまちてんのう)から従四位・近衛少将を与えられ、盃と剣を同時に受け取っています。

この二度の上洛の事実に喜んだ大親町天皇が、菊紋とともに五七桐の家紋を謙信に下賜したと言われています。

 

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養子の景虎と景勝の家紋

上杉謙信には妻子がいませんでした。一国の主に跡継ぎがいないというのは、この時代では非常に大変なことです。このため、謙信は何人かの養子をとりました。

 

謙信の跡目を狙う「景虎」と「景勝」

その中でも、跡目を巡って争ったのが「景虎」「景勝」の二人。

上杉景勝の画像

上杉景勝の肖像画



景虎 「北条氏康」の七番目の子供。
景勝 謙信の姉の子(甥っ子)上田長尾家出身

 

本来であれば、謙信自身が跡目をどちらにするかを決めるべきなのですが、その前に亡くなってしまったために「どちらが跡を継ぐか」で対立することになります。

景虎は北条家の子供ですので、当然のことながら北条家は景虎が上杉家を継ぐべきと考えます。景虎の妹は武田家に嫁いでいるため、武田家も景虎の味方でした。

しかし、対する景勝は謙信の姉の息子。子供がいなかった謙信は影勝をとても可愛がっていたとされ、上杉家の多くは「景勝こそが謙信の跡取りである」と考えていました。謙信と血が繫がっていることを考えても、上杉家が影勝を推すのは当たり前でしょう。

 

影勝が勝利!上杉家当主となる

当初は景虎有利と思われていましたが、外交的戦略を駆使した景勝が最終的には景虎を圧倒、影勝が上杉家当主となりました。この時、景勝は謙信が使っていた「竹に雀」の家紋も一緒に受け継ぎました。

景勝は、あまりに偉大な謙信を意識するあまり、とても実直でめったに笑うこともない、真面目な人物だったと言われています。謙信が景勝に残した影響は計り知れません。

 

「義」に生きた上杉謙信

 

上杉謙信の戦い画像
 

上杉謙信は、その生涯のなかで70回ほどの戦を経験しています。その勝率は95パーセントとも言われ、謙信がいかに優れた武将なのかが良く解ります。

このような勝率をあげる優秀な武将であった謙信ですが、幼いころから仏門に入っていた影響もあり、戦場に出ることを好まなかったという説もあります。仏の教えと、戦場でやることはまったくの正反対ですからね。

彼が「毘沙門天」を名乗っていたことはとても有名ですが、これは他の武将たちが「領地を拡大したいから戦を起こす」などの理由ではなく、世の中にある曲がったことをただすために闘っているのだと示したかった、という説もあります。その証拠に、彼はその生涯の中で領地を増やすために戦はしませんでした。

 

ライバル武田信玄にも認められる謙信の人柄

また、武田信玄は亡くなる前に息子の勝頼に「謙信と和睦せよ」と言い残しています。五度も戦った最大のライバルでありながら、信玄はだれよりも謙信の人柄と力、そして誠実さを認めていました。

ライバルにまでその力と人柄を認めさせたのは、やはり謙信の生きざまが素晴らしかったからでしょう。彼が今も人気を集める武将なのは、誰もが納得するところです。

 

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