大谷吉継の家紋「向かい蝶」と「鷹の羽」について|石田三成との友情を貫いた戦国武将を解説
あの豊臣秀吉が、「100万の兵を与えて指揮をさせてみたい」と言ったほどの名将・大谷吉継。「関ヶ原の戦い」では、石田三成率いる西軍に参加し、敗北してこの世を去りました。そんな彼の家紋とこれまでについて解説します。
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石田三成との友情
大谷吉継と言えば、有名なのが石田三成との友情です。ハンセン病を患っていたと言われる大谷は、人前に出るときは顔を白い布で覆っていました。茶の回し飲みから始まった三成との関係
ある日、「茶の湯」の籍で大谷や三成たちが茶の回し飲みをしていた時のこと。誰もが大谷の病気を知っていたため、彼の湯のみには誰も口をつけようとしなかったそうです。しかし、その中で石田三成だけは何も気にせず、大谷の湯のみから茶を飲みました。このことに感謝した大谷は、三成との友情をはぐくんでいきます。
盟友であった石田三成と共に戦った「関ヶ原の戦い」

豊臣秀吉が亡くなってから、豊臣家は石田三成と彼に反発する武将たちで対立していました。その対立は日に日に悪化し、三成反対派と徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍の間で「関ヶ原の戦い」が勃発します。
三成に「戦はするな」と説得する吉継
大谷吉継は徳川家康とも仲が良かったこと、三成が家康に勝つことは難しいと判断したことから、大谷は三成に対し「戦はしないように」と説得しました。しかし、最終的には三成の西軍へと参加し、戦に出ています。スポンサードリンク
関が原では小早川秀秋の裏切りを予期した
大谷は、同じ西軍であった小早川秀秋の裏切りを予期していました。このため、小早川が裏切っても対応することができるように軍を配置しています。西軍の武将は、「戦に参加したものの、乗り気ではない」という者ばかりでしたが、その中で大谷の軍は善戦。やはり裏切った小早川の軍さえも、数百メートル押し戻すという技をやってのけます。
小早川秀秋以外からも奇襲を受け壊滅
しかし、西軍から東軍に寝返った脇坂安治ら四名の武将の奇襲を受け、軍は壊滅。大谷は42歳でこの世を去りました。「関ヶ原の戦い」は、当初は西軍の方が有利と言われていたそうで、その中で三成の不利を見抜き、戦をやめるように諭そうとした大谷は、秀吉が見込んだとおりの武将だったのでしょうね。
二種類の大谷吉継の家紋
「向かい蝶」
大谷吉継の家紋は二種類あります。ひとつは、「向かい蝶」。
蝶が向かい合ったデザインのこの家紋は、大谷が「刑部少輪」という地位担った時から使い始めたもの。
丸に鷹の羽紋
その前は、「鷹の羽」の家紋を使用していました。
この「鷹の羽」から「向かい蝶」に家紋を変えた大谷は、長く「向かい蝶」の家紋を使用していましたが、彼が命を終えることになった「関ヶ原の戦い」では「鷹の羽」の家紋の方を使用していました。
鷹の羽は「強さ」の象徴とも言われ、戦の勝利をこの家紋に込めたのかもしれませんね。
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