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大友宗麟の杏葉紋は九州で大人気!ザビエルの洗礼でキリシタン大名となった戦国武将

   

大友宗麟
 

「キリシタン大名」の名で有名な大友宗麟。漢字がちょっと難しいですが「おおとも そうりん」と読みます。
※「宗麟」は法号で、本来の名前は「大友義鎮(よししげ)」ですが、ここでは有名な「宗麟」で名称を統一

キリシタンであることが彼の存在を有名にしましたが、そのせいで大友家を危機に追いやってしまったことでも有名です。簡単に略歴を説明しましょう。

 

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大友宗麟の生涯

宗麟は、今の日本の大分県に当たる「豊後国」の大友家に生まれます。長男なので家督を継ぐ立場にありましたが、父は宗麟の体が弱いことを理由に弟に家督相続をさせたがっていました。このため、父は宗麟を推している家臣たちを殺害し、やがて宗麟自身も狙われました。

これはまずいと考えた宗麟の家臣が、父が住んでいた城を襲撃して殺害します。こうして、宗麟は大友家21代目当主となりました。父からは否定された宗麟ですが、実はとても優秀な人物だったようです。

 

大友家を九州一の名家にする

家督を相続してから徐々に勢力を広げた宗麟は、やがて大友家を九州一の名家に押し上げるまでになりました。
この時期に、日本ではじめての病院が大分県に誕生するのですが、宗麟は身分にかかわらず分け隔てなく治療するように命じています。

 

キリシタンになったことが転落のきっかけに

そんな宗麟ですが、フランシスコ・ザビエルの出会いで運命が変わってしまいます。ザビエルは日本での布教活動を目指していましたが、あろうことか宗麟はそれを許してしまいました。大友家の家臣はこれにそろって反発。

大友家内でもめるきっかけを作ってしまったのです。それでも、宗麟はキリスト教を介して海外との貿易をすすめ、実績も作りました。ザビエルに洗礼を受けたことで、キリスト教に入信もしています。

 

中国地方での力を増してくる毛利元就

でも、その間にも日本の情勢は変わっていきます。この時、大友氏がいた九州の隣にある中国地方では、毛利元就が力を付け始めていました。元就はじょじょに勢力を広げていき、とうとう宗麟の弟を討ち取ります。これをきっかけに毛利氏は九州にまで手を伸ばし、宗麟は敗北。これをきっかけに出家もしています。

 

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大友家の衰退と宗麟の死

一度は毛利と和解するものの、毛利はそれを破棄して再び吸収攻めを行いました。続いて島津氏との戦いにも敗れ、大友家はどんどん衰退していきます。織田信長に島津家とのとりなしを依頼しますが、信長は「本能寺の変」でこの世を去り、いなくなってしまいます。

 

秀吉と官兵衛の協力により島津家を倒す

どうしようもなくなった宗麟は、家臣となることを条件に豊臣に助けを願い出ます。秀吉と黒田官兵衛の力によって宗麟は島津家を倒すことができましたが、ほどなくして宗麟は病に倒れ、亡くなりました。

 

大友宗麟の家紋は「杏葉紋」

大友宗麟の家紋は「杏葉紋」。馬につける馬具から発想を得て作られた家紋です。

杏葉紋
 

九州で大出世を果たした大友家が使用していた紋のためか、九州地方ではこの家紋の人気が非常に高く、宗麟を破った龍造寺隆信は杏葉紋を自分のものにしています。

今でもこの杏葉紋を使用している人は多く、九州で大友氏がかなりの権力を持っていたことが解ります。

 

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 - 戦国武将の家紋