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筒井順慶の家紋「梅鉢」|松永久秀との抗争と友人明智光秀との関係

   

 

戦国武将は誰もが苦労していますが、筒井順慶は「2歳で家督相続」という宿命を背負わされた屈指の苦労人です。彼の生涯は死ぬまで苦労の連続でした。そんな彼の家紋について解説していきます。

筒井順慶
 

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2歳で家督を継ぐも松永久秀に急襲を受ける

筒井順慶は、「大和国(現在の奈良県)」の大名の家に生まれた人物です。しかし生まれて間もなく父が亡くなり、2歳にして家督相続をする運命を背負わされました。順慶には、他には女兄弟しかいなかったのです。もちろん2歳の子供に政治ができるはずもありませんから、叔父が貢献した上での家督相続です。でも、その叔父も早くに他界。

その隙を、もともと大和国を狙っていた松永久秀に突かれてしまいます。松永の急襲を受け、順慶は筒井城を追い出されてしまいました。

 

度重なる松永久秀との争いから、ようやく筒井家を奪還

後に、松永久秀を裏切った三次三人衆と共に筒井城を奪還することに成功。ところが、それもつかの間の話しで久秀は時の風雲児・織田信長と手を組んで勢力を拡大し、再び筒井城を攻撃。またしても順慶は筒井城を奪われてしまいました。

それでも順慶は筒井城を手にすることをあきらめておらず、「福住城(今の天理市)」に潜伏しながら少しずつ力をためこんでいき、反撃する機会をうかがいます。そして新しく「辰市城」を築き、民衆の支持を得たうえで松永久秀から筒井城を奪還。ここでやっと、順慶は筒井城を取り戻すことができました。
その後、信長の家臣となった順慶は光秀を討つことにも成功しています。

 

信長のもとで、明智光秀と働く日々~訪れた本能寺の変~

順慶は、織田信長の家臣・明智光秀と交流があったようで、この縁から信長に仕えるようになりますℬ。せっかく取り戻した筒井城ですが、信長の命令で大和国にあった城たちを取り壊すことに。そのあとに「大和郡山城」を作ることに協力しました。

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友人の明智光秀が本能寺の変で

やっと平和な日常を得たかに思えた順慶ですが、友人だった光秀が織田信長を本能寺で討つと事態が一変。光秀は順慶を頼って「味方になってほしい」と文を送っていますが、順慶はこれに相当悩んだようです。

 

秀吉側につくも友人の光秀を攻めれずに

結果的に光秀ではなく羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)につくことを決めたものの、積極的に戦に参加することをせず、秀吉と光秀がぶつかった「山崎の戦い」では、豊臣軍として布陣しながらも見ているだけという立場に。もちろん後に秀吉からこの行動を攻められ、さらに周囲から「日和見」と言われるなど、ここでもまた苦労することになってしまいました。

それでもそのまま領地を維持しましたが、胃の病気を発症し37歳で亡くなっています。

 

筒井順慶の家紋は「梅鉢」

筒井順慶の家紋は「梅鉢」です。

家紋 「梅」を使った家紋では、菅原道真が有名ですね。道真をまつった「太宰府天満宮」にも、梅の紋が使用されています。梅鉢の家紋は菅原家の縁者が多く使用していると言われていますが、筒井家と関連しているかどうかはわかりません。

ただ、順慶は和歌や茶道を愛する文化人だったことが解っていますので、学問の神様・道真につながる家紋を使用しているのは不思議な縁を感じますね。

なお、この筒井家は後に石田三成の片腕となる島左近が仕えていたことでも知られています

 

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