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津軽為信の家紋「津軽牡丹」について|弘前藩初代藩主となった戦国武将

   

津軽為信
 

「津軽」という名称からも解る通り、津軽為信は青森の武将です。かつて、青森は「弘前」と呼ばれていましたが、この弘前藩ではじめての藩主になったのがこの津軽為信です。

 

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南部氏の有力者殺害により秀吉に目をつけられる為信

もともと津軽家は、陸奥(東北全域)の南部氏という人に仕えていました。しかし、南部家が衰退した頃に自分の領地を広げ、南部氏の有力者を殺害します。そのあとは津軽をはじめとする一体を支配するようになり、津軽家は強い力を持つようになりました。これに憤ったのが豊臣秀吉。秀吉は南部家とつながりをもっていたので、南部家を押しのけて権力を手中に収めた為信を良く思わなかったのです。

 

秀吉のご機嫌を伺う領土の半分を奪われる

これに危機感を抱いた為信は、秀吉の機嫌をとるために贈り物を送ったり、秀吉の小田原征伐に真っ先に参加するなどして、信頼を得るための努力をしました。これによって秀吉が表立って怒ることはなくなりましたが、やはり心から信頼されていたわけではないようで、太閤検地の時に領土の半分を持っていかれてしまいました。それでも、為信は秀吉のために挑戦の役などに参加して働いています。

 

関ケ原では嫡男が西軍だが、自身は東軍に参加

その秀吉が亡くなったあと、豊臣家の派閥争いから「関ヶ原の戦い」が勃発します。「関ヶ原の戦い」は、豊臣家の家臣である石田三成率いる西軍と、当時勢力を強めていた徳川家康の東軍がぶつかり合った戦です。この時に為信の嫡男が豊臣秀頼の小姓となっていたため、西軍に参加。

しかし為信自身は、東軍の徳川家康の東軍へと参加しました。この形をとることで、どちらが勝ったとしても津軽家は存続できます。結果的に家康が勝ち、戦を終えた為信は津軽へと戻りました。

 

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名将として語り継がれる為信

戦のあとは、徳川家康のもとで津軽と京都を行き来しながら生活し、京都で体を壊した息子を見舞った際に自らもこの世を去っています。58歳の生涯でした。たった一代で津軽氏の勢力を大きく拡大させた為信は、名将として今でも語り継がれています。津軽にいた武将ですが、もともとの出身は岩手であったため、今でも岩手県では為信を偉人として大切に扱っています。

 

津軽為信の家紋は「津軽牡丹」

家紋
津軽為信が使用していた家紋は、「津軽牡丹」。その美しさから、多くの日本人に愛されてきた牡丹の花は、こうして家紋にも使用されています。牡丹の花の美しさが、そのまま封じ込められたような雅なデザインですね。形は違いますが、牡丹紋はあの伊達政宗も使用しており、雅さから人気があったようです。
名将からしても、津軽家に縁が深い家紋と言えそうです。

 

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 - 戦国武将の家紋