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最上義光の家紋とは?伊達政宗の叔父で豊臣家から徳川家に移った戦国武将に迫る

   

最上義光は、あの「独眼竜政宗」こと伊達政宗の叔父にあたる武将で、山形藩の初代藩主です。

最上家は義光の代になるまで衰退の一途をたどっていましたが、義光が一揆も起きない善政をしいたおかげで復活し、52万石をもつ武将として戦国時代に名を馳せました。

伊達政宗宗の人気が高いことや、何度も大河ドラマになっていることから、時に政宗と敵対した義光は「悪役」として描かれることが多く、どことなく悪いイメージが付きまといます。

しかし、実際には領民からの支持も厚く、敵味方関係なく話を聞くなど非常に寛容な人物であったそうです。義光の「義」の字は、足利義輝から拝領しています。

そんな活躍を見せた最上義光の家紋と彼の人生について解説します

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とにかく「苦労人」な最上義光

最上義光と言えば、どうにも「苦労人」という印象がぬぐいきれません。何に苦労したのかというと、ひとつは伊達家との関係です。

伊達家には義光の妹・義姫が嫁いでいますが、それでも義光と伊達家の関係はあまりいいものではありませんでした。

さらに、父の義守が「家督は義光ではなく次男の義時に継がせたい」と考えていた様で、義光と義守は戦争状態になったこともあると言われています(後述)。

 

最上義光
 

家督を継ぐのが非常に大変だった義光

そんなこんなで家督を継ぐことも大変だった義光。無事に家督を継いでも義光を認めない者も多かったようですし、その後も伊達家は何かと義光に反発しており、一筋縄ではいかない日々が続きました。それでも、義光は時間をかけて領地を平定していきます。

あちこちの豪族と闘い、従わせ、それを繰り返すこと17年。やっと平定が終わったと思ったところに上杉軍が攻め入り、あっという間に庄内をとられてしまいます。本当に苦労をしている人物です。

豊臣秀吉に仕えた最上義光

その後、将軍・豊臣秀吉に仕えた義光は豊臣のために働きました。「義理堅さ」を見せて秀吉に接近し、「羽州の狐」とまで言われた義光ですが、ここでも義光に大きな不運が襲い掛かりました。「駒姫事件」です(後述)。
この事件で完全に秀吉から心が離れた義光は、徳川家康へと接近するようになります。

 

秀吉没後は、徳川家康の従軍になる義光

秀吉亡き後は、上杉景勝(上杉謙信の養子)を討とうとする家康に従軍します。しかし、このさなかに「関ヶ原の戦い」が起きたために家康は関が原を目指しました。

景勝はその隙を狙って義光に襲い掛かりますが、家臣たちと共に戦い抜き見事山形を守っています。この間に関ヶ原の戦いが集結し、西軍が敗北したという知らせを聞いた上杉家は撤退。

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上杉家の家臣である直江兼続を追い詰める

しかし義光はこれを許さず、後を追って上杉家の家臣である直江兼続と激突しました。兼続を討つことはできなかったものの、ここでもとの領地だった庄内を取り戻しています。

最上義光は、戦ではあまり敵将を追うことはしない武将でした。しかしここで追ってまで討ったのは、上杉に庄内を奪われたという恨みと、やはり駒姫を豊臣に殺された無念さがあったのでしょう。

西軍の将・石田三成は秀次の縁者の処刑もしているので、許せない思いもあったのかもしれません(とはいえ、三成も秀吉の命令に従っただけです)。

 

57万石の大名となるも豊臣派であった嫡男・義康を自らの手で殺す悲劇

ここで義光は57万石をもつ大名となり、ようやく苦労が報われたと思われましたが、ここでも彼に悲劇が襲いかかります。嫡男・義康が豊臣派であったために、義光は彼を殺さなくてはなりませんでした。

これだけの大名となりながら、義光は自分の子供を自らの手で殺したことを生涯責め続けたと言われています。

苦労と悲劇、その両方を多くをこれ以上ないほど経験している武将が最上義光なのです。

 

伊達政宗の母・義姫との関係

義光の妹は、伊達政宗の母でもある「義姫」。この義姫を義光はたいそう可愛がっていました。ところが、さすが伊達政宗の母であった存在の義姫は、一筋縄ではいかない妹でした。

伊達家と最上家がいざ合戦!という時に、義姫は輿で陣地に乗り入れ両陣の間に居座り続け、休戦を促したのです。この妹の行いに、義光は軍を退却させ、伊達軍も引きました。このエピソードからわかるように、政宗の方も母のことをかなり慕っています。

実は義姫がこのような行動をするのは初めてではなく、夫の伊達輝宗と最上義光が戦おうとしたときも戦場へ赴き、夫・輝宗を説得しています。

 

最上家の家督を次男に継がせたかった父・最上義守

これは、義光の父である最上義守が、「家督は次男のほうに継がせたい」と言い出したためで、伊達照宗は義守の味方についたために起きた争いです。ここから最上義光と伊達照宗が闘うことになったのですが、実家と夫の争いを見た義姫が嘆願したことで、輝宗は軍を引いています。

義光の甥である政宗は破天荒な行動をいくつもしていますが、それは義姫に似たのかもしれませんね。

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悲劇の姫「駒姫」

最上義光を語る上で、欠かすことができないのが「駒姫」の存在です。

駒姫引用:http://belgenn.jimdo.com/

駒姫は義光と妻の間に生まれた娘で、たいへんに美しい姫でした。義光も駒姫をたいそう可愛がっており、大切に育てていました。しかし、その美しさに目を付けた豊臣秀吉が、養子の秀次の妻にするように命じます。

義光も妻も乗り気ではありませんでしたが、時の将軍に逆らうことはできません。「15歳になってから」という約束をして、その年齢になった駒姫は秀次の妻になるために旅立ちました。

 

豊臣秀次の切腹事件

豊臣秀吉
引用:http://belgenn.jimdo.com/

しかし、この直後に「秀次切腹事件」がおきます。これは、秀吉から謀反の疑いをかけられた秀次が切腹を命じられたという事件。いくつか説はありますが、実子の秀頼が生まれて養子が邪魔になった秀吉が、秀次を罠にはめたという説があります。

 

秀次の妻になる駒姫にも処刑宣告される

秀次は切腹し、その妻子までもが処刑されることになってしまいました。

この処刑では、妻子を引き回したあとに母から子を取り上げ目の前で刺し殺し、掘った穴に投げ込むという残虐な行為が行われています。あまりの酷さに、見物に来た人たちが「むごすぎる」と後悔したほどで、後世まで語り継がれるほど。

 

自らの娘「駒姫」を守る義光だが、時すでに遅し

これを聞いた義光は、諸大名に掛け合ってなんとか娘を助けてくれるように、なんとか駒姫の命を守ってくれるようにと駆け回りますが、駒姫は殺されてしまいます。

さすがに酷すぎると各方面から批判された秀吉が、「尼にするように」と言った話も伝わりますが、間に合いませんでした。いずれにせよ駒姫は、戦国の世の中で語り継がれるほどむごい方法で葬られたのです。

これにショックを受けたのか、駒姫の母は死から2週間後に死去。自殺と言われています。

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駒姫が殺されて怒り狂う義光は家康側に

義光はこれに怒り狂い、表面上こそ秀吉に反逆はしなかったものの、秀吉の対となる勢力として成長しつつあった徳川家康に傾倒するようになりました。

晩年の秀吉の行いを見ると、秀吉は自ら敵を作るような行動も目立っており、それが死後の徳川滅亡に繫がったと言わざるを得ません。

秀次らを生かしておき、豊臣のために働かせておいた方がのちの豊臣にとっては良かったのでは?と推察されることもありますし、前例を見ても「子供は殺しても妻は殺さず尼にする」というのが一般的だった時代で、このやり方は反発を招いたでしょう。

秀吉の勝手さで死に追い詰められた人物には、あの千利休もいます。

秀次以外の養子もあらゆる方法で豊臣家から出されていますが、その一人であった小早川秀秋が豊臣家滅亡につながる裏切りをするのは皮肉な話です。

 

最上義光の家紋とは?

最上義光が使っていたのは、「丸に二つ引き」と呼ばれるものです。

丸に二つ引き紋
 

非常に簡単な図柄の家紋なのですが、この家紋を足利家が使用していたために急激に広まったと言われています。
義光は足利家から「義」の字をもらっていますので、最上家と足利家の縁から家紋が同じなのかもしれませんね。

 

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 - 戦国武将の家紋