武田勝頼の家紋と生涯|武田信玄の4男で武田家を最大勢力図にした戦国武将

武田勝頼

武田勝頼
 

武田勝頼は、武田信玄の四番目の子供です。といっても側室の子で、上に三人も兄がいたことから当初は跡取りとして扱われておらず、母方の家である「諏訪家」の跡取り・諏訪勝頼としての道を歩んでいました。その勝頼が、武田家の跡取りになるなんて誰が想像したでしょうか?そんな彼の家紋とこ波乱万丈の勝頼の人生についてまとめました。

 

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信玄に「頼りない」と言われつつも、武田家の勢力図を大きくした勝頼

長男死亡、次男盲目、三男死亡、そして4男頼

当初は武田家の跡取りになるはずもない勝頼でしたが、長男が信玄との関係を悪化させて幽閉、そして死亡。次男は盲目、三男も早くに亡くなったため、勝頼が跡継ぎとして担ぎ出されることになりました。しかし、勝頼が跡継ぎになることを武田家家臣たちはよく思っておらず、信玄も「勝頼が当主になるのは一時的なもので、勝頼の子が元服したらその子を当主にするように」と言っていました。

勝頼にしてみれば「諏訪家の人間として歩んでいたのにいきなり武田家の当主になることになり、さらにはそれが一時的なものでしかない」ということになります。武田家の当主になることは名誉なことだったでしょうが、この扱いはあんまりだと考えるのが当たり前です。

一時期は父を越える領地を所有していた勝頼

信玄は、死に際して「自分の死を三年隠すように」と家臣たちに伝えていました。これは「自分が死ねば武田家は弱体化する」というという意味で、勝頼の頼りなさを表したものです。また、家臣たちは相変わらず勝頼と対立していたので、そのことも弱体化の要因になると考えていたのでしょう。

 

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いつまでの隠せなかった信玄の死

しかし、信玄ほどの武将が死んだことをいつまでも隠せるわけがありません。天下統一のために勢力を伸ばしていた信長と家康は、武田家と同盟を組んでいた浅井長政を討つなどして武田家を狙っていました。

信玄を超える勢力図にした勝頼

勝頼は、父・信玄を超えることを目指し(これにより家臣たちに自分たちを認めさせたい思いがあったと思われます)、織田家の領地に侵攻したり、信玄でも攻略することができなかった家康領地の城・天神城を落としたり、信玄の時代よりも武田の領地を広げています。

 

長篠の戦いでの敗北~そこからどんどん落ちていく勝頼

こうして自身の力を見せつけた勝頼ですが、この成功により家臣たちの話を聞かなくなり、溝は深くなる一方。
その中で、家臣だった奥平定能が寝返って徳川家についてしまいます。このため、勝頼は奥平定能を討つために長篠へ15000の軍を率いて進軍。定能がこもっている城を攻撃しますが、定能の子・信昌が思った以上の抵抗を見せ、なかなか城を落とせないという事態に。そうこうしているうちに、長篠には信長と家康の援軍が到着し、勝頼軍は一気に不利になってしまったのです。

 

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武田軍の死者は10000を超え勢力低下

武田軍の死者は10000を超え、この戦いで有力な家臣たちが命を落としました。勝頼自身はわずかな兵と一緒に帰還したものの、この戦いで武田家の力は低下してしまいます。力をなくした武田家を再興するために、勝頼はかつてのライバル・上杉家と接触。力のあった北条氏とも婚姻を結んで関係を強化するなどの政策に乗り出します。こうしてもう一度武田家を強化し、盛り立てていこうと考えていたのです。

上杉家の家督相続では景勝推しで北条氏との関係破綻

しかし、上杉家で起きた家督相続の際、勝頼は北条氏が押していた景虎ではなく景勝を推したために、北条氏との関係が破たん。これにより北条氏を頼ることができなくなった勝頼は、織田家と手を結びたいと考えましたが、織田家にとって武田家は「滅ぼすべき相手」になっていたため、かないませんでした。

 

信長・秀吉に追い詰められ37歳で自害

その後、勝頼は織田信長と徳川家康に攻められ敗走し、夫人と甲斐の山中をさまよっていたところを見つかり、自害。37歳でした。

 

あまり語られない勝頼の悲劇

「愚将」と言われることも多い武田勝頼ですが、彼が歩んできた道を思えばそうとも言い切れません。勝頼の母は武田信玄に滅ぼされた「諏訪家」という家の娘でした。信玄と婚姻したものの、家を滅ぼされた娘が信玄をよく思うはずがありません。もともと武田家家臣は婚姻に反対していたとも言われ、婚姻後も武田家とこの諏訪家から来た妻は対立していたようです。

 

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諏訪家を滅ぼされた諏訪家出身の勝頼が武田家に

このため、そこに生まれた勝頼についても「敵将の血をひいた子」と家臣たちは認めておらず、勝頼は生まれた時からとても辛い立場に立たされていました。もともとは諏訪家を継ぐはずだった勝頼ですから、もし諏訪家にそのままいればまた違った人生があったかもしれません。

また、このように家臣たちから良く思われていなかった勝頼を当主にするしかなかった時点で、武田家の未来には暗雲が立ち込めていたとも言えます。自分をよく思っていない武田家の家臣たちに認められるには、父以上の武勲を立てるしかなかった勝頼。一度は領地を拡大するなどの活躍をみせるものの、織田信長と徳川家康はあまりにも大きすぎる相手でした。

武田信玄という名将のもとに生まれながら、勝頼の人生かあまりに孤独で悲しいものでした。

 

武田勝頼の家紋は「武田菱」

武田信玄の家紋は、父・信玄と同じ「武田菱」。

家紋
彼の生い立ちを見れば、この家紋を背負って戦に行くときの勝頼の心には色々な思いがあったと想像できます。
運命に翻弄された勝頼は、この家紋を見てどんなことを思ったのでしょうか。

 

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