豊臣秀次の家紋「五七の桐」と悲劇の最期-秀吉の後継ぎとなるはずが秀頼誕生で転落?-

実子になかなか恵まれなかった豊臣秀吉は、あちこちから養子をとっていました。何人かの養子のなかで、特に有名なのは小早川秀秋でしょう。しかし、もう一人有名な養子がいます。豊臣家の将来を背負う人材と期待されながら、切腹に追い込まれて死んだ豊臣秀次の存在です。

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豊臣二代目将軍の座を約束されていた秀次

農民から将軍にまで駆け上がった異色の将軍・豊臣秀吉ですが、跡継ぎにはなかなか恵まれませんでした。茶々との間にできた鶴松という男子がいたものの、早くに亡くなっています。ならば縁者から養子をとるという選択がありましたが、秀吉の弟・秀長とその子供も次々に亡くなってしまいました。その中で、将来を期待されていたのが秀次です。秀次は秀吉の姉の子供で間違いなく豊臣の血を継いでいますし、成人した男子だったので、秀吉も秀次を跡継ぎにと考えて関白の地位も与えていました。

秀吉に実子・秀頼が生まれてすべてが変わった

鶴松が亡くなって以降、実子に恵まれなかった秀吉ですが、再び茶々との間に男児を授かりました。この男児が、豊臣秀頼です。これが秀次の運命を変えてしまいました。秀次が誕生したと知るや否や、地方にいた秀吉はすぐさま出立し、10日かけて茶々のところに戻り秀頼を抱き上げるほどの喜びよう。これ以降、秀吉はあからさまに実子の秀頼を可愛がるようになり、秀次は自分の立場がどうなるのかとかなり不安を抱いていたようです。

秀吉の謀反を企てたという罪で切腹に追いやられる

その不安が的中したかのように、秀次は「秀吉への謀反を企てていた」という罪で切腹。27歳という若さでした。

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はっきりしない秀次切腹の理由

秀次の切腹の理由は今となってもはっきりしていません。ここでは高野山への追放説と秀次が邪魔になった説との2つを中心にお伝えします

高野山に追放・切腹説

昔から伝わるのは、秀頼に跡取りの座を持っていかれることを危惧した秀次が、秀吉に対して謀反を企てたことで高野山に追放・切腹となった説です。しかし、時の将軍であった秀吉に対して謀反を企てていたとすれば「武士の誉」と言われた切腹が許されるとは考えにくいという指摘があります。のちに秀次の縁者は惨殺されているので、それを思えば謀反説もありかもしれませんが、当の秀次が切腹というのはやはり変です。他にも、秀次が悪行を繰り返していた説や、秀吉が妻にしたいと思っていた娘を秀次が黙って妻にしたことが怒りを買ったとか、秀次が切腹した理由にはいろいろな説があります。しかし、どれもはっきりしていません。悪行を繰り返していた話しについても、秀次がどんな人物であったにせよ秀吉が悪く言えばそれが伝わりますからね。

秀次が邪魔になったという説

色々な説の中でも、近年によく言われているのが「秀頼が生まれたことにより、秀次が邪魔になった」という説です。秀頼を将軍にしたいために、それまで時期将軍候補として扱っていた秀次を排除したいという考えが生まれたのではないか?ということです。この時に秀吉はすでに病を患っていたと言われ、先のことを考えれば秀頼の未来を邪魔になるものはつぶしておきたかったのでしょう。実際、秀次以外の養子たちも豊臣家を出るなどしています。実際の理由は解りませんが、どうにかして秀次を排除したいという考えが秀吉にあったと考えるのは自然です。

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秀次切腹が豊臣家の滅亡につながった

こうして秀次を切腹させた秀吉ですが、その後に秀次の側室や子供に至るまですべての縁者を惨殺しています。その中には、東北の武将・最上義光の娘「駒姫」もいました。駒姫は秀次の側室になる予定だったものの、まだ本人に会ってもいませんでした。さらに、秀吉は「秀次の謀反に加担しようとした」という嫌疑をかけて、色々な武将たちを処罰しようとしたのです。この秀吉の行動は、諸大名に「豊臣不信」を植え付けることになり、それは徳川家康が力を強めることにつながりました。この秀次事件で謀反の疑いをかけられた大名たちは、「関ヶ原の戦い」でそろって徳川の東軍に参加しています。そして、大坂の陣で秀頼は死に、豊臣家は一代で滅亡してしまったのです。

豊臣秀次の家紋は「五七の桐」

秀次は豊臣家の武将なので、家紋も秀吉と同じ「五七の桐」です。

家紋

桐紋は桐の葉と花を図案化したもので、一般的には3枚の葉の上に3本の花が描かれ、その花の数によって五三桐、五七桐など呼び名が異なります。豊臣秀吉の家紋は太閤桐と呼ばれ、特定の一つの紋ではなく秀吉の遺品などに確認される桐紋のうち、独自のアレンジが入ったものの総称です。秀吉が家臣に与えたので西日本を中心に多く用いられています。

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kamon_r2_c2 織田木瓜 kamon_r2_c4大一大万大吉 kamon_r2_c6太閤桐 kamon_r2_c8水色桔梗

織田信長織田信雄

石田三成 豊臣秀吉 明智光秀山県昌景
kamon_r3_c2 竹に二羽飛び雀/上杉笹 kamon_r3_c4武田菱 kamon_r3_c6真田六文銭 kamon_r3_c8竹に雀/仙台笹
 上杉謙信上杉景勝伊達成実  武田信玄武田信繁武田勝頼安国寺恵瓊  真田幸村真田昌幸 伊達政宗
kamon_r4_c2蛇の目 kamon_r4_c4徳川葵 kamon_r4_c6黒田藤巴 kamon_r4_c8向い蝶
 加藤清正  徳川家康徳川秀忠  黒田官兵衛黒田長政 大谷 吉継
kamon_r5_c2
前田梅鉢/剣梅鉢
kamon_r5_c4一文字三星 kamon_r5_c6池田蝶 kamon_r5_c8足利二つ引き
 前田利家前田慶次  毛利元就毛利輝元  池田恒興池田輝政 今川義元
kamon_r6_c2丸に立ち葵 kamon_r6_c4九枚笹 kamon_r6_c6二頭立波 kamon_r6_c8 二つ雁金
本多忠勝 竹中半兵衛 斎藤道三 柴田勝家
040丸に竪木瓜 mori3三つ盛木瓜に剣花菱 hukushima福島沢瀉 069井伊橘
滝川一益 直江兼続 福島正則 井伊直虎井伊直政
turumaru鶴丸 丸に細桔梗丸に細桔梗 030丸に七つ片喰 067剣片喰
森蘭丸森長可 太田道灌 長宗我部元親 宇喜多秀家
073土佐柏 mitsukashiwa三つ柏 082.fw八咫烏 037平四つ目結
山内一豊 島左近 雑賀孫一 尼子晴久京極高次
barahujiniばら藤に井桁 家紋丸に違い鎌 029.fw 056大友抱き花杏葉
片倉小十郎 小早川秀秋 藤堂高虎松永久秀 大友宗麟高橋紹運立花道雪
yukinaga中結び祇園守 祇園守紋祇園守 042足利二つ引き 065対い鶴
小西行長 立花宗茂 足利尊氏足利義昭 蒲生氏郷
角立て七つ割り四ツ目結紋七つ割り隅立て四つ目 054細川九曜 家紋笹龍胆 039.fw丹羽直違
佐々成政 細川忠興
細川藤孝
源頼朝 丹羽長秀
丸に丸に片喰 070榊原源氏車 43.fw三つ盛り木瓜 katagiri
違い鷹の羽
酒井忠次 榊原康政 朝倉義景 片桐且元
家紋下がり藤 黒餅紋黒餅 家紋北条対い蝶 丸に二つ引き紋丸に二つ引き
加藤嘉明 黒田長政 北条早雲 最上義光
mittsu3三つ盛り亀甲に花菱 juji丸に十文字 047蜂須賀卍 家紋七曜
浅井長政 島津義弘島津貴久島津貴久島津義久 蜂須賀 小六(正勝) 高山右近九鬼嘉隆
tugarubotan津軽牡丹 033.fw北条鱗 046丸に上の字 tomoe右三つ巴
津軽為信 北条氏康北条氏政 村上義清村上武吉 結城秀康清水宗治山本勘助小早川隆景
家紋永楽銭 umehachi2梅鉢 050変わり十二日足 mitsuhiki丸に三つ引き
仙石秀久 筒井順慶 龍造寺隆信 吉川広家
家紋丸に違い鷹の羽 goshichikiri五七桐 ikomaguruma生駒車 083九条下がり藤
浅野幸長浅野長政 豊臣秀次斎藤義龍豊臣秀長 生駒正俊 本願寺顕如
ageha丸に揚羽蝶 tiyunisuzume吾亦紅/地楡に雀 家紋丸に三つ葵 家紋輪違い
平清盛 柳生宗矩 松平忠吉 脇坂安治
051鍋島花杏葉 家紋結城巴 ageha揚羽蝶 karahana唐花紋
鍋島勝茂 松平忠直 吉川元春 陶晴賢
%e5%ae%b6%e7%b4%8b抱き茗荷 satakekamon五本骨扇に月丸    
堀尾吉晴  佐竹義重    

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