丹羽長秀の家紋「丹羽直違紋」を解説!安土城を作った信長の家臣

丹羽長秀(にわながひで)は、織田信長に仕えた家臣です。「本能寺の変」で織田信長が亡くなったあと、人生が変わった武将はたくさんいるのですが、この丹羽長秀もその一人かも知れません。最期まで織田信長に忠誠を尽くした丹羽長秀の生涯に迫ります。

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織田信長に人生をささげたと言ってもいい丹羽長秀

丹羽長秀は、丹羽長政という武将の次男として生まれました。この丹羽家なのですが、長秀以前は目立ったところがないためか、はっきりとしたことが解っていません。いつから織田信長に仕えたかもわかっておらず、とても謎が多いのですが、長秀の生涯をたどっていくと元服前にはすでに信長に仕えていたようです。しかも、信長が今川義元を破って名を上げた「桶狭間の戦い」にも参加しているので、かなり古くから仕えていた人物と考えて良いです。信長は長秀をとても信頼していたようで、後の「姉川の戦い」「長篠の戦い」にも参加しています。

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長秀が「米五郎左」と呼ばれるワケ

長秀の通称は「五郎左」。今は「米五郎左」と呼ばれることも多いようです。この通称にも、もちろん信長が関わっていました。「五郎左」とは「五郎という名前+左衛門尉という官位」のことで、信長が「米のように何にでも合う(どんなことをやらせても、器用にこなす)」「米のように必要不可欠な存在という意味で長秀につけた通称なのです。ここに、信長が言った意味を加えて「米五郎左」ですね。長秀は、信長にこの通称をもらったことが本当にうれしかったみたいで、後に信長が別の官名をあたえようとしても断ったほどです。信長も、長秀に安土城の普請を任せたり、「馬揃え(軍事行進のようなもの)」では一番の入場になるなど、かなり厚遇していました。しかし、あの「本能寺の変」が二人の関係を大きく変えてしまうことになるのです…。

織田信長には四天王と呼ばれる家臣が!

天下統一まであと1歩というところで光秀に討たれた信長でしたが、彼を支える4人の強力な武将がいました。

柴田勝家 niwa丹羽長秀 滝川一益の家紋滝川一益 明智光秀の画像 明智光秀

この4人を見ると秀吉がいない!?と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、実は織田家の家臣の中で秀吉は5番目の序列でした。秀吉は本能寺の変の後に光秀を倒し、清州会議で頭角を現すことになりました。

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「本能寺の変」以降の長秀~謎の死

良い関係を築いてきた信長と長秀ですが、信長は「本能寺の変」で明智光秀に討たれ、この世を去ります。長く慕ってきた信長が討たれたと聞いた時、長秀はどんなに無念だったでしょう。遺された長秀は、信長の三男にあたる織田信孝を支援し、光秀の子供だった娘婿を殺害(とはいえ、この娘婿は無関係だったという見方が強いです)。そして、毛利家との戦いから「中国大返し」をして戻ってきた秀吉と共に明智光秀を討ちました。

清須会議にて柴田勝家と秀吉が対立!長秀は秀吉側に

ここで、長秀と秀吉の間に縁ができます。その後、織田家では後継者を決める「清州会議」を開くのですが、ここで対立した柴田勝家と羽柴秀吉のうち、羽柴秀吉の方の案に賛同しているので、両者の関係は良かったものと思われます。この「清州会議」のあとに勝家と秀吉の関係は悪化。やがて勃発した「賤ヶ岳の戦い」にて、秀吉は勝家を討ちます。ここでも、長秀は秀吉についていますので、秀吉への信頼は厚かったと言われています。

丹羽長秀51歳にしてこの世を去る

ところが、そのあとに長秀は51歳でこの世を去ります。死因は諸説ありますが、共に光秀を討って信長を殺された仇を返したはずの秀吉が、だんだんと織田家をないがしろにしていくことに絶望したとも言われています。秀吉は、最初こそ織田信長の次男・信雄を推したものの、勝家を倒したあとは自分が織田家の力を吸収し、信雄のことはないがしろにしていました。織田家に長く仕えた長秀は、それが我慢できなかったのでしょう。「本能寺の変」からわずか三年の出来事でした。

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丹波長秀の家紋とは

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丹羽秀長の家紋は「丹羽直違紋」。「にわすじかいもん」とよみます。×のような、ふしぎな形をしていますよね。この家紋の由来ははっきりとしていないのですが、丹羽家がこの家紋を使用したのは「戦場で刀を布でふいたら血の×印が残ったから」とも、戦のあとに旗が日本のみ残ったからとも言われています。

筋違は二本の直線を交差した幾何学的なもので、「直違」とも書きます。もともとは、建物の強度を高めるために柱と柱の間に対角線に入れる材料のことです。そのような建材を指す筋違ですが、家紋としても筋違は模様として扱われています。意味としては家や城を守るということで家紋に使用されました。武家では丹羽氏が丹羽筋違を用いており、戦場で血の付いた刀を拭った跡が由来となっていると言われています。筋違紋には他に、三つ組み筋違、四つ組み筋違、丸に筋違、六つ組み筋違などがあり、どれも直線が交差したデザインです。直線は細いものや太いものなど、紋によってそれぞれ異なります。

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kamon_r2_c2 織田木瓜 kamon_r2_c4大一大万大吉 kamon_r2_c6太閤桐 kamon_r2_c8水色桔梗

織田信長織田信雄

石田三成 豊臣秀吉 明智光秀山県昌景
kamon_r3_c2 竹に二羽飛び雀/上杉笹 kamon_r3_c4武田菱 kamon_r3_c6真田六文銭 kamon_r3_c8竹に雀/仙台笹
 上杉謙信上杉景勝伊達成実  武田信玄武田信繁武田勝頼安国寺恵瓊  真田幸村真田昌幸 伊達政宗
kamon_r4_c2蛇の目 kamon_r4_c4徳川葵 kamon_r4_c6黒田藤巴 kamon_r4_c8向い蝶
 加藤清正  徳川家康徳川秀忠  黒田官兵衛黒田長政 大谷 吉継
kamon_r5_c2
前田梅鉢/剣梅鉢
kamon_r5_c4一文字三星 kamon_r5_c6池田蝶 kamon_r5_c8足利二つ引き
 前田利家前田慶次  毛利元就毛利輝元  池田恒興池田輝政 今川義元
kamon_r6_c2丸に立ち葵 kamon_r6_c4九枚笹 kamon_r6_c6二頭立波 kamon_r6_c8 二つ雁金
本多忠勝 竹中半兵衛 斎藤道三 柴田勝家
040丸に竪木瓜 mori3三つ盛木瓜に剣花菱 hukushima福島沢瀉 069井伊橘
滝川一益 直江兼続 福島正則 井伊直虎井伊直政
turumaru鶴丸 丸に細桔梗丸に細桔梗 030丸に七つ片喰 067剣片喰
森蘭丸森長可 太田道灌 長宗我部元親 宇喜多秀家
073土佐柏 mitsukashiwa三つ柏 082.fw八咫烏 037平四つ目結
山内一豊 島左近 雑賀孫一 尼子晴久京極高次
barahujiniばら藤に井桁 家紋丸に違い鎌 029.fw 056大友抱き花杏葉
片倉小十郎 小早川秀秋 藤堂高虎松永久秀 大友宗麟高橋紹運立花道雪
yukinaga中結び祇園守 祇園守紋祇園守 042足利二つ引き 065対い鶴
小西行長 立花宗茂 足利尊氏足利義昭 蒲生氏郷
角立て七つ割り四ツ目結紋七つ割り隅立て四つ目 054細川九曜 家紋笹龍胆 039.fw丹羽直違
佐々成政 細川忠興
細川藤孝
源頼朝 丹羽長秀
丸に丸に片喰 070榊原源氏車 43.fw三つ盛り木瓜 katagiri
違い鷹の羽
酒井忠次 榊原康政 朝倉義景 片桐且元
家紋下がり藤 黒餅紋黒餅 家紋北条対い蝶 丸に二つ引き紋丸に二つ引き
加藤嘉明 黒田長政 北条早雲 最上義光
mittsu3三つ盛り亀甲に花菱 juji丸に十文字 047蜂須賀卍 家紋七曜
浅井長政 島津義弘島津貴久島津貴久島津義久 蜂須賀 小六(正勝) 高山右近九鬼嘉隆
tugarubotan津軽牡丹 033.fw北条鱗 046丸に上の字 tomoe右三つ巴
津軽為信 北条氏康北条氏政 村上義清村上武吉 結城秀康清水宗治山本勘助小早川隆景
家紋永楽銭 umehachi2梅鉢 050変わり十二日足 mitsuhiki丸に三つ引き
仙石秀久 筒井順慶 龍造寺隆信 吉川広家
家紋丸に違い鷹の羽 goshichikiri五七桐 ikomaguruma生駒車 083九条下がり藤
浅野幸長浅野長政 豊臣秀次斎藤義龍豊臣秀長 生駒正俊 本願寺顕如
ageha丸に揚羽蝶 tiyunisuzume吾亦紅/地楡に雀 家紋丸に三つ葵 家紋輪違い
平清盛 柳生宗矩 松平忠吉 脇坂安治
051鍋島花杏葉 家紋結城巴 ageha揚羽蝶 karahana唐花紋
鍋島勝茂 松平忠直 吉川元春 陶晴賢
%e5%ae%b6%e7%b4%8b抱き茗荷 satakekamon五本骨扇に月丸    
堀尾吉晴  佐竹義重    

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