九州の最強武将軍団・島津家。15代当主・島津貴久の子、島津義久・義弘・歳久・家久の四兄弟は、戦国時代を語るには欠かせませんよね。この四兄弟の中でも、貴久の跡を継いで16代目当主となった島津義久について紹介します。次男の島津義弘があまりに有名なので、その陰に隠れがちなのですが、義久は九州の名家・島津家の当主としてふさわしい人柄・実力を兼ね備えている人物です。
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■父:島津貴久
→島津4兄弟の父・島津貴久の家紋「丸に十文字」を解説|島津家を拡大させた戦国武将
■長男:島津義久
→島津4兄弟の長男・島津義久の家紋「丸に十文字」を解説|九州一の戦国武将
■次男:島津義弘
→島津家次男で九州の猛将・島津義弘の生涯と家紋「丸に十文字」
■三男:島津歳久
→父の貴久や兄の義久、義弘を助けて数々の合戦で活躍した立役者
■四男:島津家久
→島津4兄弟の四男・島津家久の家紋「丸に十文字」を解説|龍造寺隆信を破った戦国武将
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父・島津貴久の跡を継いだ義久
父・島津貴久は、島津家の分家に生まれた嫡男でした。それを、島津家の当主に請われて養子に行ったのですが、一度は当主の座を奪われるなどした苦労人です。のちに島津家当主に返り咲いた貴久は、かねての願いだった薩摩(鹿児島)を平定しました。この時、すでに家督は嫡男の義久が継いでいます。
その後、島津一家は大隅(鹿児島のあたりだと思ってください)を攻めるのですが、その半ばで父・貴久は死去。義久と下の弟たちは、父の遺志を継いで大隅・日向(宮崎)と戦い、傘下に治めると、侵攻してきた大友宗麟を「耳川の戦い」で打ち破り、さらに勢力を強めていた竜造寺のことも弟の家久が破り、快進撃を見せます。そして肥後(熊本)を手に入れ、九州統一目前までいきました。
ところが、ここで思わぬところからストップがかかりました。豊後国の大友宗麟が、わざわざ上洛して秀吉に「助けてほしい」と要請したため、秀吉が「惣無事令」を出し、国同士の争いをやめるように命令したのです。※ちなみに、秀吉は海賊も禁じています。これで壊滅的な打撃を受けたのが、瀬戸内海の村上水軍。
これは、九州だけでなく関東や東北・朝鮮にわたって出した命令で、「勝手に戦をすることを禁じる」という命令です。織田信長亡き後に、着々と天下統一への道を歩んでいた秀吉は、九州の島津家の勢力も「何とかしなければ」と思っていたのでしょう。
でも、だからといって言うことを聞くような四兄弟ではありません。秀吉の言うことを無視して、筑後を攻撃しようとしていました。これに怒った秀吉は、島津家を潰すために「九州征伐」を開始するのです。一度はこれに勝利したものの、最終的には秀吉の軍に降伏。島津家に与えられたのは、薩摩一国となりました。
後に、島津家の家臣たちが秀吉に対する不満を抱えて「梅北一揆」を起こすのですが、この時に弟・歳久の家臣が多く加わっていたことから、義久は弟を討たなければならなくなります。歳久は朝鮮出兵も断っていたため、秀吉からいろいろと睨まれていたというのもあるのでしょう。仕方なく義久は歳久を討とうとするのですが、歳久は家と兄のことを思って自害します。義久は、弟の一人を失うという悲劇をここで経験することになるのです…。
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そして、やってきた「関ヶ原の戦い」!弟・義弘の西軍参加
秀吉が死ぬと、時代は「関ヶ原の戦い」へと流れていきます。この時、弟の島津義弘は京都にいたことから、石田三成の西軍に参加することになりました。しかし、義弘は兵を率いたにも関わらず戦に参加させてもらえなかったため、敵の中を中央突破して退却。
義久は九州で軍を動かさずに静観しており、義弘の西軍参加も「義弘の独断でやったことで、島津家は関係ない」という立場をとろうとしていました。ところが、義弘の息子・忠恒は義久の反対を押し切って上洛し、父の行いを謝罪。家康は島津家をつぶしたいという考えでしたが、関ヶ原の戦い」で少なからずダメージを受けた家康とちがい、島津家はほとんど戦っておらず戦力を維持していました。ここでぶつかることは得策ではない、と考えた家康は、忠恒の謝罪を受け入れ、島津家の領地もそのまま安堵されました。家康に逆らったのに、領地を取られずに済んだ極めて稀有な例です。
その後、義久は家督を正式に義久の子・忠恒に譲ります(のちに家久と改名します。叔父と同じ名前ですね)。島津家の実権を握りつつ、79歳で亡くなりました。※これまで、弟の義弘が17代目当主とされてきましたが、その後の研究で義久の後は忠恒に家督が譲られているようです。しかし、島津家の「島津家正統系図」には、義弘が17代目当主と書かれているため、それを優先し義弘を17代目当主としているそうです。
天下をとり、幕府を開いた徳川家康でさえ、義久の実力と恐ろしさを認めていたとか。まさに九州の名将にふさわしい人物です。
島津義久の家紋とは
島津義久の家紋は「丸に十字紋」。
九州・島津家のシンボルとしてかなり有名な家紋です。字紋は文字そのものを紋にしたもので、「文字紋」と呼ばれることもあります。字を見ればどんな意味があるのかすぐにわかることや、信仰や縁起に関わるものとして人気の紋でした。一や二などの漢数字が用いられることが多かったのですが、中には名字の一部を図案化したり、二文字用いて図案化するものもありました。珍しい字紋には、縦に一番と描いた一番字、丸に南の字、丸に変形した林を入れた丸に林字、六文字用いた大一大万大吉などがあります。稲葉氏は「隅切り角に角三」、北条氏は「隅立て折敷に二の字」、島津氏は「十の字」、村上氏と八代氏は「丸に上の字」を使用していました。
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戦国武将117名の家紋一覧をまとめてチェックしよう
織田木瓜 | 大一大万大吉 | 太閤桐 | 水色桔梗 |
石田三成 | 豊臣秀吉 | 明智光秀/山県昌景 |
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竹に二羽飛び雀/上杉笹 | 武田菱 | 真田六文銭 | 竹に雀/仙台笹 |
上杉謙信/上杉景勝/伊達成実 | 武田信玄/武田信繁/武田勝頼/安国寺恵瓊 | 真田幸村/真田昌幸 | 伊達政宗 |
蛇の目 | 徳川葵 | 黒田藤巴 | 向い蝶 |
加藤清正 | 徳川家康/徳川秀忠 | 黒田官兵衛/黒田長政 | 大谷 吉継 |
前田梅鉢/剣梅鉢 |
一文字三星 | 池田蝶 | 足利二つ引き |
前田利家/前田慶次 | 毛利元就/毛利輝元 | 池田恒興/池田輝政 | 今川義元 |
丸に立ち葵 | 九枚笹 | 二頭立波 | 二つ雁金 |
本多忠勝 | 竹中半兵衛 | 斎藤道三 | 柴田勝家 |
丸に竪木瓜 | 三つ盛木瓜に剣花菱 | 福島沢瀉 | 井伊橘 |
滝川一益 | 直江兼続 | 福島正則 | 井伊直虎/井伊直政 |
鶴丸 | 丸に細桔梗 | 丸に七つ片喰 | 剣片喰 |
森蘭丸/森長可 | 太田道灌 | 長宗我部元親 | 宇喜多秀家 |
土佐柏 | 三つ柏 | 八咫烏 | 平四つ目結 |
山内一豊 | 島左近 | 雑賀孫一 | 尼子晴久/京極高次 |
ばら藤に井桁 | 丸に違い鎌 | 蔦 | 大友抱き花杏葉 |
片倉小十郎 | 小早川秀秋 | 藤堂高虎/松永久秀 | 大友宗麟/高橋紹運/立花道雪 |
中結び祇園守 | 祇園守 | 足利二つ引き | 対い鶴 |
小西行長 | 立花宗茂 | 足利尊氏/足利義昭 | 蒲生氏郷 |
七つ割り隅立て四つ目 | 細川九曜 | 笹龍胆 | 丹羽直違 |
佐々成政 | 細川忠興 細川藤孝 |
源頼朝 | 丹羽長秀 |
丸に片喰 | 榊原源氏車 | 三つ盛り木瓜 | 違い鷹の羽 |
酒井忠次 | 榊原康政 | 朝倉義景 | 片桐且元 |
下がり藤 | 黒餅 | 北条対い蝶 | 丸に二つ引き |
加藤嘉明 | 黒田長政 | 北条早雲 | 最上義光 |
三つ盛り亀甲に花菱 | 丸に十文字 | 蜂須賀卍 | 七曜 |
浅井長政 | 島津義弘/島津貴久/島津貴久/島津義久 | 蜂須賀 小六(正勝) | 高山右近/九鬼嘉隆 |
津軽牡丹 | 北条鱗 | 丸に上の字 | 右三つ巴 |
津軽為信 | 北条氏康/北条氏政 | 村上義清/村上武吉 | 結城秀康/清水宗治/山本勘助/小早川隆景 |
永楽銭 | 梅鉢 | 変わり十二日足 | 丸に三つ引き |
仙石秀久 | 筒井順慶 | 龍造寺隆信 | 吉川広家 |
丸に違い鷹の羽 | 五七桐 | 生駒車 | 九条下がり藤 |
浅野幸長/浅野長政 | 豊臣秀次/斎藤義龍/豊臣秀長 | 生駒正俊 | 本願寺顕如 |
丸に揚羽蝶 | 吾亦紅/地楡に雀 | 丸に三つ葵 | 輪違い |
平清盛 | 柳生宗矩 | 松平忠吉 | 脇坂安治 |
鍋島花杏葉 | 結城巴 | 揚羽蝶 | 唐花紋 |
鍋島勝茂 | 松平忠直 | 吉川元春 | 陶晴賢 |
抱き茗荷 | 五本骨扇に月丸 | ||
堀尾吉晴 | 佐竹義重 |
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