仙石秀久は、「無」の旗印で有名な武将ですね。この仙石秀久ですが、見ようによっては能力のない武将になり、しかし別の方面から見れば「恩」を大切にした武将にもなり、なんとも不思議な武将です。そんな彼の家紋について解説します
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秀吉に初期から仕えた武将・仙石秀久
仙石秀久が生まれた仙石家は、美濃(今の岐阜県の一部)の斎藤道三という大名に仕えていました。四男として生まれたために養子に出されていましたが、後継ぎになるはずだった兄たちが続けて亡くなったために秀久が仙石家を継ぐことになります。その後、勢力を伸ばしつつあった織田信長についた秀久は、14歳という若さながらその才能を信長に認められ、信長の家臣・木下藤吉郎に仕えることになりました。
秀吉初めての部下こそ戦国久秀
さて、この木下藤吉郎がだれだか分かりますか?そう、後の豊臣秀吉です!(ここでは藤吉郎を秀吉で統一します)秀吉は農民出身で、織田信長と出会った時も足軽という低い身分でした。その秀吉が信長に取り立てられてから、はじめてできた家臣がこの秀久。秀吉にとって初めての部下ですから、それは嬉しかったでしょう。
本能寺の変後は現在の淡路島を平定
秀久は、織田信長が「本能寺の変」で討たれたあとは「淡路平定(淡路;現在の淡路島、病後県の一部)」を平定するなどの活躍をしており、これにより洲本城の城主にもなりました。後に行われた四国攻めでも功績を残し、讃岐13万石を得るなど、秀吉のもとでどんどん力をつけていったのです。
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九州征伐の失敗ですべてを失った秀久
そんな秀久ですが、どうやら人の言うことをきかないところがあったようです。秀吉が九州征伐を仕掛けようとする際、秀久に「援軍をやるから待つように」と言われたのに、それを聞かずに軍を率いて攻め込んでしまいました。その結果、秀久の軍は敗北。それも、同じ四国の土佐藩を治めていた長曾我部信親らが奮戦しているにもかかわらず、「負ける」と分かったとたんに逃亡。その結果、長曾我部信親は戦死してしまいます。※この信親が死んだことが、後の長曾我部家滅亡のきっかけになってしまいます…。
秀吉から臆病者と呼ばれ領地減少
これに激怒した秀吉は、秀久から讃岐の領地を取り上げます。さらに、まだ兵が戦っているのに逃げ帰った秀久を「臆病者」と罵り、高野山に追いやられてしまいました。自分の命令を無視した結果、敗北した秀久への怒りはただならぬものがあったのでしょうね。
その後「鈴鳴り武者」としての復活
しかし、秀久は秀吉のもとで働くことをあきらめていませんでした。もはや天下統一をすることが確実となった豊臣秀吉が、関東の名家・北条氏を攻める「小田原征伐」では、わずかな家臣たちを率いて秀吉のもとに向かい、自分たちも戦わせてくれるように願い出ます。まだ秀久を許していなかった秀吉ですが、徳川家康がとりなしたことで秀久の軍参加を許しました。この戦で、秀久は「何もかも失った自分の立場」を示すかのように、旗印に「無」の紋を入れて出陣。
小田原征伐で秀吉の信頼を回復することに成功
羽織りに鈴をつけ、敵に見つかりやすくしたうえで戦い、秀吉への忠義を示しました。それを見た秀吉は、ようやく秀久と謁見。ここで秀久を許し、自らの黄金の金団扇を手渡したうえで、5000万石と小諸城を与えています。なお、小諸城はこの時点で未完成のままで、秀久が完成させています。ただ、秀久は領地と城をもらってもほとんど住まなかったといいます。なぜなら、今でいう長野県にあった小諸城は秀吉がいた大阪にあまりに遠かったため。秀吉の近くにいるために、秀久は大阪に近い京都に住むことを選びました。秀吉への恩を大切にしていたのでしょう。
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「恩」を忘れず、「関ヶ原の戦い」では家康についた
その秀吉が亡くなったあと、豊臣家の家臣・石田三成と徳川家康の間で「関ヶ原の戦い」が勃発。ここで秀久は、小田原征伐の際に秀吉との間を取り持ってくれた徳川家康の軍に参加しています。※秀久の次男は三成の軍に参加。「関ヶ原の戦い」では、こうして親子が分かれて双方の軍に入ることが多くみられました。有名どころだと、真田幸村がそうですね。
秀吉亡き後は家康の息子秀忠に忠義を立てる
秀久は家康の息子・徳川秀忠に付き添って「上田城攻め(真田昌幸)」をしていましたが、真田軍は思った以上に手ごわく、秀忠は苦戦を強いられます。その最中、秀久は自らを真田軍に人質と差出し、秀忠本人には家康のところへ向かうようにと進言。秀忠の命を守るために捨て身の覚悟を見せました。
さらに家康から「(関ヶ原の戦いがはじまるため)美濃にいくように」と言われた秀忠が、悪天候のために戦の参加に遅れてしまった時は、怒る家康に秀忠を許してくれるように嘆願を行い、秀忠を助けています。
徳川2代目将軍秀忠が秀久を認める
命を懸けて「恩」に生きた秀久に、秀忠は「恩」を返します。徳川家の二代目将軍になったあと、秀忠は自分をかばってくれた秀久を大切に扱いました。こうして秀忠に仕えながら穏やかな生活を送ったのち、64歳で亡くなりました。秀吉の命に背いて戦に敗北・さらに自分だけ逃げかえったことで「臆病者」と言われ、悪評もある秀久ですが、その後の人生では秀吉に忠義を尽くし、さらに徳川家にも認められる存在になっています。一度讃岐の領土を取り上げられ、追いやられたことで生き方を見つめ直したからこそ、かもしれません。
仙石秀久の家紋は「永楽銭紋」
仙石秀久の家紋は、貨幣でもよく知られる「永楽銭紋」。この家紋は織田信長も使用しており、信長が秀久に下賜したと言われています。
「丸に無」の文字を入れたものが非常に有名ですが、これは家紋ではなく「旗印」です。一度領地を取り上げられた秀久が、再び「小田原征伐」で豊臣秀吉のもとで戦うことをきっかけに使用するようになりました。
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戦国武将117名の家紋一覧をまとめてチェックしよう
織田木瓜 | 大一大万大吉 | 太閤桐 | 水色桔梗 |
石田三成 | 豊臣秀吉 | 明智光秀/山県昌景 |
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竹に二羽飛び雀/上杉笹 | 武田菱 | 真田六文銭 | 竹に雀/仙台笹 |
上杉謙信/上杉景勝/伊達成実 | 武田信玄/武田信繁/武田勝頼/安国寺恵瓊 | 真田幸村/真田昌幸 | 伊達政宗 |
蛇の目 | 徳川葵 | 黒田藤巴 | 向い蝶 |
加藤清正 | 徳川家康/徳川秀忠 | 黒田官兵衛/黒田長政 | 大谷 吉継 |
前田梅鉢/剣梅鉢 |
一文字三星 | 池田蝶 | 足利二つ引き |
前田利家/前田慶次 | 毛利元就/毛利輝元 | 池田恒興/池田輝政 | 今川義元 |
丸に立ち葵 | 九枚笹 | 二頭立波 | 二つ雁金 |
本多忠勝 | 竹中半兵衛 | 斎藤道三 | 柴田勝家 |
丸に竪木瓜 | 三つ盛木瓜に剣花菱 | 福島沢瀉 | 井伊橘 |
滝川一益 | 直江兼続 | 福島正則 | 井伊直虎/井伊直政 |
鶴丸 | 丸に細桔梗 | 丸に七つ片喰 | 剣片喰 |
森蘭丸/森長可 | 太田道灌 | 長宗我部元親 | 宇喜多秀家 |
土佐柏 | 三つ柏 | 八咫烏 | 平四つ目結 |
山内一豊 | 島左近 | 雑賀孫一 | 尼子晴久/京極高次 |
ばら藤に井桁 | 丸に違い鎌 | 蔦 | 大友抱き花杏葉 |
片倉小十郎 | 小早川秀秋 | 藤堂高虎/松永久秀 | 大友宗麟/高橋紹運/立花道雪 |
中結び祇園守 | 祇園守 | 足利二つ引き | 対い鶴 |
小西行長 | 立花宗茂 | 足利尊氏/足利義昭 | 蒲生氏郷 |
七つ割り隅立て四つ目 | 細川九曜 | 笹龍胆 | 丹羽直違 |
佐々成政 | 細川忠興 細川藤孝 |
源頼朝 | 丹羽長秀 |
丸に片喰 | 榊原源氏車 | 三つ盛り木瓜 | 違い鷹の羽 |
酒井忠次 | 榊原康政 | 朝倉義景 | 片桐且元 |
下がり藤 | 黒餅 | 北条対い蝶 | 丸に二つ引き |
加藤嘉明 | 黒田長政 | 北条早雲 | 最上義光 |
三つ盛り亀甲に花菱 | 丸に十文字 | 蜂須賀卍 | 七曜 |
浅井長政 | 島津義弘/島津貴久/島津貴久/島津義久 | 蜂須賀 小六(正勝) | 高山右近/九鬼嘉隆 |
津軽牡丹 | 北条鱗 | 丸に上の字 | 右三つ巴 |
津軽為信 | 北条氏康/北条氏政 | 村上義清/村上武吉 | 結城秀康/清水宗治/山本勘助/小早川隆景 |
永楽銭 | 梅鉢 | 変わり十二日足 | 丸に三つ引き |
仙石秀久 | 筒井順慶 | 龍造寺隆信 | 吉川広家 |
丸に違い鷹の羽 | 五七桐 | 生駒車 | 九条下がり藤 |
浅野幸長/浅野長政 | 豊臣秀次/斎藤義龍/豊臣秀長 | 生駒正俊 | 本願寺顕如 |
丸に揚羽蝶 | 吾亦紅/地楡に雀 | 丸に三つ葵 | 輪違い |
平清盛 | 柳生宗矩 | 松平忠吉 | 脇坂安治 |
鍋島花杏葉 | 結城巴 | 揚羽蝶 | 唐花紋 |
鍋島勝茂 | 松平忠直 | 吉川元春 | 陶晴賢 |
抱き茗荷 | 五本骨扇に月丸 | ||
堀尾吉晴 | 佐竹義重 |
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