お役立ち!季節の耳より情報局

暮らしに役立つ様々な情報を厳選してお届けします!

豊臣秀頼の家紋「五七桐」を解説|大坂夏の陣で破れた戦国武将

   

豊臣秀頼の家紋を解説
goshichikiri

五七桐

豊臣秀頼の家紋

戦国時代では、とある出来事からその後の歴史が大きく変わってしまった、というものがいくつか存在します。
例えば、有名なのは「本能寺の変」ですね。
日本統一一歩手前まで上り詰めた信長が、「本能寺の変」で明智光秀に討たれたことは、その時代に生きた多くの人々の運命を変えることになりました。

そして、もう一つが豊臣秀吉の嫡男・豊臣秀頼の誕生です。
秀頼の誕生は、その後の豊臣家の運命を変えることになりました。

 

秀吉の子は秀頼だけじゃなかった!

豊臣秀頼は、秀吉の側室・茶々(のちに淀殿と呼ばれる)が産んだ子供です。
秀吉の子というと「秀頼が最初の子」のように語られることが多いのですが、実は他にも男児が二人いました。
しかし、いずれも子供のうちに亡くなってしまっています。
茶々も、秀頼の前に「鶴松」という男児を産んでいるのですが、この子は生まれた時からかなり病弱だったようで、3歳という幼さで亡くなっています。
鶴松の直前にも秀吉は子を亡くしており、鶴松が死んだときの秀吉の落胆ぶりは相当のものがあったようですね。

正妻の寧々との間に子はなく、大勢の側室がいてもなかなか子供に恵まれなかった秀吉。
そのことを思ってか、秀吉は多くの養子をとって後継者として育てています。
秀吉の姉の子・豊臣秀次もそうですし、あの小早川秀秋ももとは秀吉の養子でした。
養子の中で特に期待されたのが秀次で、彼は秀吉の血を継いでいるだけでなく養子たちの中で一番年長であったために「豊臣家の時期当主」として期待されていましたし、実際に秀吉から関白の職も譲られています。

そんな時に、秀吉と寧々の間に生まれたのが豊臣秀頼だったのです。

 

秀頼の誕生に大喜びの秀吉。しかし、それが豊臣家を壊していく…

豊臣秀吉の三男として誕生した豊臣秀頼。
先に二人の男児を無くしていた秀吉は、秀頼の誕生を大いに喜んだそうです。

それだけなら当たり前のことなのですが…
秀頼の誕生から、秀吉は自らの養子たちを冷遇するようになりました。

象徴的なのが、豊臣秀次の切腹。
秀頼が誕生した時に、すでに秀次は秀吉から関白の職を譲られ、名実ともに「豊臣家の跡取り」になっていました。
秀次と秀頼はかなりの年齢差がありましたし、当初は秀次→秀頼の順で家督を継がせる案もあったようですが、秀吉は秀次から関白の職をはく奪の上切腹させ、妻子まで皆殺しにしています。
秀次が秀吉への謀反を考えていた、という理由での切腹ですが、流れから見て「嫡子に跡を継がせたい秀吉が、秀次を排除した」という見方が強いです。
当時は「男子は殺しても女性は生かす」という風潮だったため、妻子まで殺した秀吉のやり方には批判が集まりました。

この秀次切腹に関連して、武将が秀吉から心離れする事態も起きています。
ひとつは、秀次の妻になるはずだった「駒姫」のこと。
駒姫は最上義光という武将の娘で、大層美しい姫と評判でした。その美しさに目を付けた秀吉は、義光に「秀次の妻にするように」と命じます。
義光は乗り気ではありませんでしたが、秀吉の命令に逆らうことはできないため、成長するのを待って嫁がせました。そのさなかにおきたのが、秀次の切腹。
駒姫はまだ秀次に会ってもいないにも関わらず、他の妻子とともに酷い殺され方をされました(槍で刺されて、穴に放り込まれる)。

父の義光は、駒姫の助命のためにほうぼうを駆け巡り、秀吉も「尼にしろ」と言った説もあるのですが、結果は「殺害」。この影響から、義光の妻で駒姫の母は急死しています。おそらく、自殺でしょうね。
この仕打ちに怒った最上義光は、秀吉よりも徳川家康に傾くようになりました。

秀頼自身には何の罪もないのですが、彼の誕生は秀吉を変え、そして秀吉を支えていた武将たちの心も変えてしまったのです。
そしてもう一つ、秀吉のかつての養子が豊臣家に牙を剥く日がやってきます…。

 

「関ヶ原の戦い」、裏切ったのは秀吉のかつての養子・小早川秀秋

秀吉が亡くなったあと、豊臣家の家臣たちは石田三成派と徳川家康派に分かれて争うようになります。
間を仲裁していた前田利家が死ぬと、両者の対立はますます悪化。

やがてそれは、「関ヶ原の戦い」へとつながっていきました。
勘違いされやすいのですが、「関ヶ原の戦い」は家康が天下をとるための戦いではなく、あくまで「豊臣家の家臣たちの中で、三成と家康のどちらが実権を握るか」というお家争いです。
なので、西軍の三成も東軍の家康も、「豊臣秀頼のために戦う」という趣旨に変わりはありません。

さて、「関ヶ原の戦い」で、先に軍の布陣をしたのは石田三成でした。
後から到着した家康軍は不利な布陣で戦うことを強いられ、当初は三成の西軍の方が押していました。

ところが。
ここで、西軍にいた小早川秀秋が裏切り、隣に配置されていた大谷吉継軍に襲い掛かります。
正確に言うと、小早川秀秋は東軍から「裏切るように」と事前に言われており、大谷吉継もそれを見抜いて小早川秀秋が裏切ること前提で布陣をしていました。
それもあって、一時は大谷軍が小早川軍を押し返すのですが、さらに豊臣家と通じていた四人の武将たちが襲い掛かり、大谷軍は壊滅。そして、「関ヶ原の戦い」は東軍・家康の勝利で幕を閉じるのです。

問題はここから。
勝利した家康は、秀頼に感謝の言葉をもらうものの、戦後処理で220万石から65万石の一大名にされてしまいました。
「関ヶ原の戦い」が「天下分け目の関ケ原」と言われるのは、当初は秀頼のための戦でも「結果的に、家康の力を強めて豊臣家の力を弱めることになった」という結果につながるためです。
石田三成の「西軍」が勝っていれば、このようなことにはならなかったでしょう。

そして、その「西軍」を裏切り、「関ヶ原の戦い」の西軍敗北のきっかけを作った小早川秀秋は、かつての秀吉の養子です。
秀吉は、秀頼に跡を継がせるために他の養子たちを他家にやっており、秀秋はその一人でした。
秀頼の誕生で、養子たちを冷遇するようになった秀吉の所業は、結果的に秀頼を追い込むことになってしまったのです…。なんとも、皮肉な話です。

 

「大阪の陣」での秀頼の死

「関ヶ原の戦い」で領地を減らされても、秀頼の地位が急激に低下したわけではありません。
秀頼は以前のようにきちんと大名たちに命令したり、一大名になってもちゃんと収入はありました。
また、家康の孫娘・千姫と結婚するなど、家康との関係を維持しています。
※この千姫の母は、茶々の妹のお江です。

その後には、家康に会うために自ら上洛。
もとは家臣である家康の所へ、豊臣家の秀頼が上洛して会いに行くというのは、本来であればありえないことです。力を持った家康とうまくやっていくために、秀頼側もいろいろと譲歩していたのでしょう。

家康の方も、秀頼に対してはどう対処しようか迷っていたフシもあるのですが、最終的には「大阪の陣」で母の淀殿と共に大阪城で自害。
秀頼には国松という子供がいましたが、この子も捉えられて殺害されています。8歳という幼さでした。
娘は、大阪城から助け出された千姫の除名嘆願もあり、尼になって生き延びます。この姫には子供がなかったため、この尼の死をもって豊臣家は滅亡となりました。

 

一代で終わってしまった豊臣家

秀頼は、父・秀吉に似ず197センチの大柄な男性でだったとか。
直接対面した家康が、秀頼のカリスマ性を見抜いたことで「豊臣家を滅ぼす」と決めたと言われるほどなので、天下人の息子にふさわしい佇まいを持っていた男性と考えられています。

しかし、父・秀吉にあまりに似ていないこと、正室の寧々や他の側室になかなか子が出来なかったことから、「秀頼の父親は別人なのでは」という説もあります。
母の茶々(淀殿)は、織田信長の妹・お市の方と浅井長政が遺した三姉妹の長女。
そのことから、小説や漫画では「秀頼は秀吉の子ではなく、茶々が浅井と織田の血をひく秀頼を天下人にしようとたくらんだ」と描かれることも少なくありません。
いずれにせよ、現代では真相はわかりません。

ただ、晩年の秀吉が秀頼のために「よかれ」と思ってやったことが、結果的に秀頼や豊臣家を滅亡に導いた可能性は高いです。「関ヶ原の戦い」の原因となった石田三成と加藤清正らの対立も、秀吉の朝鮮出兵が原因になっているという説がありますからね。
大阪城で自害する秀頼や淀殿を、空の上の秀吉はどんな目で見つめていたのでしょうか。

 

豊臣秀頼の家紋

豊臣秀頼の家紋は「五七の桐」。
この家紋は、父の秀吉が天皇から下賜されたもの。
豊臣家は、他にも「太閤桐」などの特別な家紋を持っていますが、やはりこの「五七の桐」のイメージが一番強いですね。

 - 戦国武将の家紋