長曾我部元親の家紋と生涯を紹介!四国を平定した戦国武将に迫る

四国を代表する武将と言えば、長曾我部元親ですよね。以前はちょっと知名度が低めの武将だったのですが、最近の戦国ブームの中でゲームに登場するなど知名度をあげ、現在では有名な武将の1人になっています。その長曾我部元親の、どこか悲壮さが漂う人生と家紋についてご紹介しましょう。

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長曾我部元親ってどんなひと?

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長曾我部元親は、1539年に土佐(現在の高知県)に生まれました。「岡豊城(おこうじょう)」というお城の主だった長曾我部国親の息子です。幼いころは大変に大人しく、20歳を過ぎても初陣がなかったことから、「姫若子」などと呼ばれることもあった元親ですが、22歳でようやく迎えた初陣では鬼人のごとく槍を振り回し、一転して「鬼若子」と恐れられるようになりますした。その初陣からほどなくして、父の国親が他界。

22歳の若さで長曾我部の家督に

元親は、22歳という若さで長曾我部の家督を継ぐことになりました。元親は、「半兵半農」という「普段は田畑を耕し、いざという時は兵士として戦う」という方式を使って四国各地に攻め入り、1585年に四国統一を果たしました。

あまりに大きかった豊臣秀吉、そして息子の死…

しかし、四国統一に喜んでいたのもつかの間のことでした。天下統一を果たした豊臣秀吉が四国に目を付け、この年に四国に攻め入ります。元親側は半民半農の兵ばかり、しかし相手はきっちりと闘い方を教え込まれた兵士ばかりです。勝ち目はなく元親は降伏。せっかく統一した四国から、土佐以外の領地をすべて没収されてしまいました。四国という国から見て、秀吉の存在はあまりに大きなものでした。

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さらなる悲劇!長男長曾我部信親の戦死

その元親に、さらなる悲劇が襲ったのは1586年のこと。秀吉の九州攻めに参加した元親ですが、この戦いで長男である信親が命を落としました。享年22歳。信親は一気に八人の兵を斬ることもできたという実力者で、元親も大変期待していた息子です。信親の遺体をみた元親は、ショックのあまり自死をしようとしたほど。この信親の死が、元親の運命を大きく変えてしまいます。

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なぜか四男盛親に家督を継がせることに

信親の死が元親に与えた影響は非常に大きなものでした。元親には信親のほかに三人の息子がいましたが、次男・三男を無視して四男の盛親に家督を継がせることを決めます。この理由には諸説ありますが、元親は信親がのこした娘を息子に嫁がせて「信親の血を残したい」と考えていたそうで、そのためには一番若い盛親が適任であったと考えたのかもしれません。既に次男と三男は他の家を継いでいたため、長曾我部家の家督を継ぐことは難しいと考えた可能性もあります。この件に当然のことながら長曾我部家の関係者は反発しますが、反対する者を元親は厳粛して黙らせ、かなり無理な方法で盛親が家督を相続することになりました。それも、家督は継いだものの父と二人の二頭政治です。周りから見れば「異常な経緯での家督相続」となったため、豊臣秀吉は盛親を城主とは認めていなかったとも言われています。

息子「信親」の死後、急変する元親の性格

信親が死ぬまでの元親は、部下の話しにもきちんと耳を傾ける人物であり、慈愛にあふれ、家臣たちからも信頼された城主でした。それが信親を失ってからは一転し、周囲の反対も聞かずに四男の盛親に無理やり家督相続させるなど別人のような行動をとるようになりました。当主としての精彩を欠いたまま、元親は1599年に京都にて死去。61歳でした。

大坂の陣で敗北後に長曾我部家は滅亡に

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その後、盛親は大阪の陣で豊臣側に敗北して斬首に。息子たちもそれぞれ斬首になったため、長曾我部家は滅亡することになります。しかし、それは直系のみの話しで、養子に出ていた一族が血を残しており、現在もご子孫が健在です。

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長曾我部家の家紋は「七つ片喰(かたばみ)」

長曾我部家の家紋は、「七つ片喰」と呼ばれるもので、私たちが良く知っている「カタバミ」をイメージしたものです。

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長曾我部元親の先祖となる人物が土佐に向かう際に参拝をし、杯を仰ぐと、そこにカタバミの葉が浮かんでいたことから家紋にしたという言い伝えがあります。また、カタバミは繁殖力が強いことから「子孫繁栄」の意味もあるとされていますが、長曾我部家のことを思うとなんとも言えない物悲しさがありますね。

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戦国武将117名の家紋一覧をまとめてチェックしよう

kamon_r2_c2 織田木瓜 kamon_r2_c4大一大万大吉 kamon_r2_c6太閤桐 kamon_r2_c8水色桔梗

織田信長織田信雄

石田三成 豊臣秀吉 明智光秀山県昌景
kamon_r3_c2 竹に二羽飛び雀/上杉笹 kamon_r3_c4武田菱 kamon_r3_c6真田六文銭 kamon_r3_c8竹に雀/仙台笹
 上杉謙信上杉景勝伊達成実  武田信玄武田信繁武田勝頼安国寺恵瓊  真田幸村真田昌幸 伊達政宗
kamon_r4_c2蛇の目 kamon_r4_c4徳川葵 kamon_r4_c6黒田藤巴 kamon_r4_c8向い蝶
 加藤清正  徳川家康徳川秀忠  黒田官兵衛黒田長政 大谷 吉継
kamon_r5_c2
前田梅鉢/剣梅鉢
kamon_r5_c4一文字三星 kamon_r5_c6池田蝶 kamon_r5_c8足利二つ引き
 前田利家前田慶次  毛利元就毛利輝元  池田恒興池田輝政 今川義元
kamon_r6_c2丸に立ち葵 kamon_r6_c4九枚笹 kamon_r6_c6二頭立波 kamon_r6_c8 二つ雁金
本多忠勝 竹中半兵衛 斎藤道三 柴田勝家
040丸に竪木瓜 mori3三つ盛木瓜に剣花菱 hukushima福島沢瀉 069井伊橘
滝川一益 直江兼続 福島正則 井伊直虎井伊直政
turumaru鶴丸 丸に細桔梗丸に細桔梗 030丸に七つ片喰 067剣片喰
森蘭丸森長可 太田道灌 長宗我部元親 宇喜多秀家
073土佐柏 mitsukashiwa三つ柏 082.fw八咫烏 037平四つ目結
山内一豊 島左近 雑賀孫一 尼子晴久京極高次
barahujiniばら藤に井桁 家紋丸に違い鎌 029.fw 056大友抱き花杏葉
片倉小十郎 小早川秀秋 藤堂高虎松永久秀 大友宗麟高橋紹運立花道雪
yukinaga中結び祇園守 祇園守紋祇園守 042足利二つ引き 065対い鶴
小西行長 立花宗茂 足利尊氏足利義昭 蒲生氏郷
角立て七つ割り四ツ目結紋七つ割り隅立て四つ目 054細川九曜 家紋笹龍胆 039.fw丹羽直違
佐々成政 細川忠興
細川藤孝
源頼朝 丹羽長秀
丸に丸に片喰 070榊原源氏車 43.fw三つ盛り木瓜 katagiri
違い鷹の羽
酒井忠次 榊原康政 朝倉義景 片桐且元
家紋下がり藤 黒餅紋黒餅 家紋北条対い蝶 丸に二つ引き紋丸に二つ引き
加藤嘉明 黒田長政 北条早雲 最上義光
mittsu3三つ盛り亀甲に花菱 juji丸に十文字 047蜂須賀卍 家紋七曜
浅井長政 島津義弘島津貴久島津貴久島津義久 蜂須賀 小六(正勝) 高山右近九鬼嘉隆
tugarubotan津軽牡丹 033.fw北条鱗 046丸に上の字 tomoe右三つ巴
津軽為信 北条氏康北条氏政 村上義清村上武吉 結城秀康清水宗治山本勘助小早川隆景
家紋永楽銭 umehachi2梅鉢 050変わり十二日足 mitsuhiki丸に三つ引き
仙石秀久 筒井順慶 龍造寺隆信 吉川広家
家紋丸に違い鷹の羽 goshichikiri五七桐 ikomaguruma生駒車 083九条下がり藤
浅野幸長浅野長政 豊臣秀次斎藤義龍豊臣秀長 生駒正俊 本願寺顕如
ageha丸に揚羽蝶 tiyunisuzume吾亦紅/地楡に雀 家紋丸に三つ葵 家紋輪違い
平清盛 柳生宗矩 松平忠吉 脇坂安治
051鍋島花杏葉 家紋結城巴 ageha揚羽蝶 karahana唐花紋
鍋島勝茂 松平忠直 吉川元春 陶晴賢
%e5%ae%b6%e7%b4%8b抱き茗荷 satakekamon五本骨扇に月丸    
堀尾吉晴  佐竹義重    

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