2017年の大河ドラマの主人公・井伊直虎。戦国時代に生きた女城主として知られる直虎ですが、実は彼女の人生を示す資料はとても少なく、本当に存在した人物なのかさえ議論の的となっています。井伊直虎は、徳川家康に仕えた「徳川四天王」の一人「井伊直政」の養母として知られる人物。戦国時代を代表する将軍となった徳川家康にとって、徳川四天王は徳川政権を支える非常に重要な家臣たちであり、その中にはあの有名な本多忠勝も含まれています。
井伊直政像
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目次
- 1 実在したかどうかはっきりしない?井伊直虎の人物像
- 2 複雑な立場に置かれた井伊家・そこに生まれた直虎
- 3 井伊直盛の死~残された直虎
- 4 次々と跡取りが亡くなっていく井伊家と直虎
- 5 直虎、仏門の僧侶となり、「次郎法師」と名乗る
- 6 元婚約者・井伊直親の死~そして「井伊直虎の誕生」
- 7 井伊家の存続に立ち上がった女城主「井伊直虎」
- 8 井伊直虎と徳政令~小野政次の最期
- 9 一か月で終焉を迎える政次政権
- 10 直虎が守った虎松は、やがて井伊直政として徳川家の重鎮へ
- 11 直虎は男性だった?新たな史料の出現
- 12 井伊直虎の家紋は「井伊橘(いいたちばな)」
- 13 井伊家は暗殺から逃れられないのか?「安政の大獄」で暗殺に散った井伊直弼
- 14 戦国武将117名の家紋一覧をまとめてチェックしよう
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実在したかどうかはっきりしない?井伊直虎の人物像
2つしか残されていない直虎に関する資料
その徳川四天王に名を連ねる井伊直政の養母となれば、しかるべき文献や記録が残されていても不思議ではないのですが、直虎の存在を示す資料は以下の二つしかありません。
・直虎が出家したときに名乗った「次郎法師」の名が残る寄進状
・直虎の花印が押されている書状2通
これだけです。このため、謎多き人物としてたびたび議論の対象となっており、その人物像に関しては今後の発見や研究が待たれるところ。しかし、こんな風に謎が多いからこそ直虎に対する関心も強く、大河ドラマの主人公に選ばれたのかもしれません。そんな謎多き女城主・井伊直虎の家紋と人生についてまとめてみました。
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複雑な立場に置かれた井伊家・そこに生まれた直虎
まず、直虎について説明する前に、彼女の両親と井伊家についてご説明しましょう。直虎は、当時あった「遠江国・井伊谷」という場所で生まれました。今でいう静岡県ですね。父は井伊家22代当主・井伊直盛。そして母は、新野近矩(にいの ちかのり)という人物の妹でした。実は、この母の血筋が井伊家に重要な影響をもたらしています。新野親矩は、「今川家」の家臣であった人物。この新野親矩の妹が井伊家当主のもとへ嫁いでいるということは、今川家と井伊家の関係が非常に深いものだったことを示す根拠になります。当時、家同士の縁を結ぶためには子供同士の結婚が使われていましたからね。そして、この今川家と井伊家の関係が直虎の人生に大きな影響をもたらしているのです。
今川氏と戦って敗北した過去を持つ井伊家
井伊家の隣にあった今川家。戦国時代では隣の領地とは何かと争いが起きるものですが、今川家と井伊家も例外ではありませんでした。実は、井伊家は過去に今川氏と戦って敗北している過去があります。しかも二度。一度目は、後醍醐天皇がきっかけで起きた南北朝争いにて敗北。二度目は、戦国時代になってから今川氏親が遠江国を侵略した時の敗北。このうち、二度目の敗北の影響は非常に大きく井伊家は没落の危機を迎えるほどに追い詰められました。
井伊家と今川家の転機は井伊直平
しかし、そんな井伊家が二十代当主・井伊直平(直虎の曽祖父)の代を迎えたとき、転機が訪れます。度重なる今川家との争いを回避するためか、直平は自分の娘を今川義元に人質に出すことで服従を近い、今川家の家臣として生きる道を選びました。これまで、今川家との戦いで井伊家が失ったものを考えれば、この直平の考え方は井伊家を存続させるためにはやむを得ないものだったでしょう。ところが、ここから井伊家には多くの悲劇が訪れることになります。
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井伊直盛の死~残された直虎
今川家の家臣として生きることを選んだ井伊直平。その直平は、今川家が戦に出るときはいつも先鋒を任されました。「先鋒」とは、戦の際に先頭に立って進む軍のことです。当然のことながら、とても危険な役割です。この関係は、直平が代を退いて息子の井伊直宗(井伊家二十一代目)に家督を譲ったあとも続きます。直宗は、かつて父がそうであったように今川家の先鋒として危険な戦をこなしていました。
井伊直宗は戦で討ち死に
ですが、その日々の中で井伊直宗は討ち死にをしてしまいます。戦で当主を失った井伊家は、新しい当主を立てなければならなくなりました。まだ存命であった直平が、直宗の次に当主として選んだのは、直宗の息子であった井伊直盛(井伊家二十二代目当主)でした。それまでと変わらず、今川家の家臣として直盛は役割を果たしていきます。
今川義元によって過去最大勢力に!
この時、今川家の当主は今川義元。今川家を過去最大勢力にのし上げた義元は、甲斐の国(今の山梨県)を統治していた武田信玄の妹を妻にし、さらに祖父が伊豆の北条家の妻を迎えていた縁から北条氏も味方につけており、三国同盟を結んでその立場を確固たるものにしていました。勢いに乗った義元は、唯一敵として残った織田家を討つために兵を挙げます。この織田家VS今川家の戦いが、有名な「桶狭間の戦い」です。
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今川家25000対織田家2500だが軍配は
「桶狭間の戦い」において、今川家の勢力は25000兵。対する織田家は、その10分の1にしかならない2500程度の兵力でした。誰がどう見ても今川家の方が優勢で、織田家は負けると思っていたでしょう。しかし、この時代に織田家の当主として君臨していたのは「織田信長」です。信長はその頭脳明晰な頭脳を働かせ、今川家の軍がどう動くのかを見極め、奇襲作戦を用いて今川義元を討ちました。「桶狭間の戦い」は、今も信長の武勇伝として語り継がれる非常に有名な戦です。この戦いの中で、今川義元だけでなく井伊直盛も討死してしまいました。直盛には男児がなく、遺されたのはただ一人の女の子のみ。この女の子が、のちの井伊直虎です。
次々と跡取りが亡くなっていく井伊家と直虎
これまでの記述で、井伊家の当主は
・井伊直宗(井伊家二十一代目当主)→討死
・井伊直盛(井伊家二十二代目当主)→討死
という順で亡くなっています。戦国の世ですから、こうして当主が相次いで亡くなることがないとも言えません。ただ、井伊家の場合はこれで悲劇は終わりませんでした。
井伊家の家老「小野政直」は今川家のスパイだった!?
実は、井伊直宗の弟である直満・直義の二人は今川義元への謀反を企てているという疑いをかけられ、義元に殺害されてしまっています。この謀反の疑いを今川義元に告げたのは、井伊家の家老だった小野政直。井伊家の敵は今川家だけではなかったことが解ります。小野政直はもともと今川家がスパイとして送り込んだ説があり、自分の息子・直次と直盛の娘(つまり直虎)を結婚させて、井伊家を乗っ取ろうとしていたとも伝えられています。
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井伊直満の息子・亀之丞にも迫る危機
危険は殺害された井伊直満の息子・亀之丞にも迫っていました。亀之丞は直盛の養子となっていた人物で、直盛のただ一人の娘であった直虎の許嫁でもあった男性です。そのままであれば、亀之丞は直虎と結婚して井伊家を継いでいくはずでした。政直にしてみれば、この亀之丞が生きていれば直虎と直次を結婚させられませんでしたから、殺すことを考えるのは自然な流れです。暗殺の危険がある以上、亀之丞はそのまま国にいるわけにはいかず、信濃へと逃亡。逃亡先で妻をめとり、男児・虎松をもうけました。そして二十二代目当主であった井伊直盛が討死したのち、直虎の曽祖父・直平により井伊家の家督を任され、井伊直親として生きることになります。直親は小野政直が亡くなった翌年に逃亡先から井伊家に戻っています。
直虎、仏門の僧侶となり、「次郎法師」と名乗る
直虎はといえば、亀之丞が信濃へいった時点で仏門の僧侶となり、「次郎法師」と名乗りました。婚約者がいなくなってしまったことと、老中・小野政直のたくらみに気づいたことから、自分の政治的利用を避けるために仏門に入ったと考えるのが自然でしょう。その証拠に、次郎法師は「尼」ではなく「僧侶」としての出家で、俗世への帰還が許される身でした。直虎が直次と結婚すれば、井伊家は今川家に乗っ取られてしまいます。それを防ぐための仏門入りと考えるのが自然です。この後十年、直虎は直親に会うことはありませんでした。※直親と直虎の許嫁説については、創作の可能性もあります。
元婚約者・井伊直親の死~そして「井伊直虎の誕生」
かつて婚約者であった男性が、別の妻をめとって男児をもうけた…運命のいたずらとはいえ、次郎法師(直虎)はその流れをどういう気持ちで見ていたのでしょうか。この時点で次々と当主や兄弟が亡くなっている井伊家。さぞ直親の身も心配だったに違いありません。そして残念ながら、この直親も非業の死を遂げることになります。
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今川家の元家臣「松平元康」こそ後の家康
桶狭間の戦いで、今川義元を失った今川家は非常に混乱していました。圧倒的な兵力を持っていた今川家でしたから、勝つのは当然と考えていたのでしょう。しかしまさかの敗北。この混乱のさなか、今川家に服従していた松平元康という人物が独立し、織田家と手を結びました。この松平元康は、のちの徳川家康です。今川家にしてみれば、自分の当主を殺した織田家と、元家臣が手を結んだということになります。警戒どころの話ではなかったことが容易に想像できるでしょう。この成り行きが、直親の命を奪うことになってしまいました。
ちらつく小野政直の存在
ここでも、あの小野政直の影がちらついてきます。小野政直の嫡男・政次は、井伊家を乗っ取りたいという父の遺志をしっかりと受け継いでいたようです。井伊家が今川家を良く思っていないのは容易に想像できますが、これは今川家に父を殺された直親も同じでした。直親は、今川家の知らないところで松平元康と懇意になっていたようで、そのことを小野政次につかまれてしまいます。そして、小野正次はそのことを今川家に伝えました。当然のことながら怒った今川家に釈明するため、直親は駿河へと出向きますが、そこで今川家の家臣に殺害されてしまいました。父の直満は小野政直の告げ口で今川家に殺害され、直満の息子である直親は、政直の息子・政次の告げ口によって今川家に殺されるという、なんとも因果な最期を迎えます。政次直親の息子・虎松まで殺害しようとしていますので、それもかつて直満の子・亀の丞(直親)を殺そうとした父に似ています。
井伊家に残されたのは直平と虎松のみ
直親の死により、井伊家に遺ったのは直虎の曽祖父・かつて二十代目当主であった直平と、直親の息子・虎松のみ。ところが、直平は戦のさなかに亡くなってしまい(毒殺と言われています)、残されたのは虎松だけになってしまいました。井伊家にしてみれば、この虎松の命を絶たれればそこで家が途絶えてしまう一大事です。何としても、何をしてもこの虎松の命だけは守らなければなりませんでした。新野親矩の嘆願により虎松の殺害は避けられ、安全な場所にうつされたものの、それでもいつどうなるか解らないという不安が井伊家にあったはずです。
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井伊家の存続に立ち上がった女城主「井伊直虎」
井伊家存続が危ぶまれる中、妙案を思いついたのは次郎法師がいたお寺の和尚でした。「井伊家二十二代目当主・井伊直盛の娘である次郎法師を還俗させること(俗世にかえすこと)。そして、残された虎松の養育にあたること」。次郎法師が尼ではなく僧侶となった意味が、ここに生きてくるのです。女であったこと・僧侶であったことから今川家の目がいかなかった次郎法師は、女城主として井伊家に返り咲き、井伊家のもとで虎松の養育をすることになります。これが、女城主「井伊直虎」の誕生です。
井伊直虎と徳政令~小野政次の最期
さて、城主となった直虎のその後はどうなったのでしょうか?直虎は、遺児となった虎松の貢献をしながら井伊家の当主として政治を取り仕切りました。この政治を取り仕切るうちに、今川家とともに井伊家を翻弄した小野家との決着がつくことになります。
義元亡き今川家を継ぐ氏真の「徳政令」
今川義元のあとに今川家当主となった今川氏真は、井伊谷付近の界隈に「徳政令」を流布します。この徳政令とは、簡単に言えば「借金帳消し」。つまり、お金を借りていても徳政令が出れば帳消しになるわけです。借り手にとっては特になりますが、お金を貸している側にとってはとんでもないダメージになってしまうために、豪商たちの力を借りて井伊家を存続させていた直虎は、この徳政令を支持するわけにはいきませんでした。それをすれば、豪商たちが倒れて力を失ってしまうためです。今川家に歯向かったとのことで直虎は井伊家を追われ、かつて世話になった和尚のはからいで寺に逃げます。そのあと、井伊家の家督となったのが小野政次。おそらく、政次の人生の中でもっとも得意毛な瞬間だったでしょう。
一か月で終焉を迎える政次政権
けれど、政次の栄華は一か月で幕を閉じます。今川義元と同盟を結んでいた武田家が、今川家を見限って同盟を破棄・徳川家康と手を結んだのです。武田家当主・信玄は今川家を攻め落とし、小野政次もまた捕らえられてしまいます。
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小野政次による直親殺しを機に小野家は終焉へ
直虎はここで小野政次が直親殺しにかかわっていることを家康に告げました。結果、政次は武士として切腹することも許されず、磔にされて死を迎えます。その息子たちも同じく殺害されました。親子二代で井伊家を苦しめていた小野家は、ここで終焉となりました。その後、武田家によってふたたび城を奪われてしまうものの、信玄が亡くなった武田家の力が弱まったところをついた織田・徳川軍が勝利をおさめ、直虎は井伊谷城を無事に取り戻しています。
直虎が守った虎松は、やがて井伊直政として徳川家の重鎮へ
井伊家に唯一残された男児である虎松は、直虎が結婚する,はずだった許嫁・亀の丞(井伊直親)の息子です。許嫁の忘れ形見を、直虎はどんな思いで見つめたのでしょう。井伊家を守るために、直虎は自分が今川家の関心を引き付けることで虎松の存在を隠しました。直親の妻として生きる道を失い、さらに「次郎法師」という僧侶として生きることも許されず、それでも直虎は決死の覚悟で虎松を育て上げたのです。
15歳の虎松は家康に仕え「徳川四天王」に
やがて虎松は成長し、15歳の時に家康に正式に仕えます。そして「井伊直政」として井伊家を背負い、徳川家康を支える重鎮「徳川四天王」と呼ばれるほどに家康の信頼を得る家臣となりました。直政の活躍のもと、井伊家は見事に復活を遂げることに成功したのです。
直虎は男性だった?新たな史料の出現
これまで女性と信じられてい来た直虎ですが、2016年に新たな史料が見つかり、男性であった説が浮上しています。これによれば、今まで直虎と信じられてきた井伊直盛の娘・次郎法師ではなく、井伊家の家臣の息子を「井伊次郎」として当主としたそうで、これまでの説とはまったくの別人が直親亡き後の井伊家を継いだことになります。また、この資料には「直虎」の記述がありません。今になってこのような説が出てくること自体、直虎の存在がいかに謎に満ちているのかが解りますね。
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井伊直虎の家紋は「井伊橘(いいたちばな)」
井伊直虎の家紋は、「橘」を用いた「井伊橘」の紋です。
橘紋は十大家紋と呼ばれるとても有名な紋のひとつで、中でも井伊家が用いた紋は「井伊橘」として区別されています。橘紋は他にもたくさんありますが、井伊家が使用したものは「井伊橘」とよばれ、区別されています。橘はミカン科の常緑小高木で、「右近の橘、左近の桜」と称される日本固有の植物です。小さく香りの強い実を付け、桃の節句には桃と共に飾られます。この風習は奈良時代頃から始まったようです。家紋としては平安時代末期頃から用いられるようになり、特に西日本で多く用いられました。橘紋は、十大家紋の一つでもある代表的な家紋です。橘一族の家々や、武家の井伊氏、薬師寺氏、土田氏、小寺氏、安芸氏などが使用していました。井伊氏が使用していたものは井伊橘、薬師寺氏のものは薬師寺橘と呼ばれています。他に、一つの橘の花をモチーフにしたシンプルな橘や、二つの橘を使った抱き橘、沢山の花を使った花橘などがあります。
井伊家は暗殺から逃れられないのか?「安政の大獄」で暗殺に散った井伊直弼
井伊家は、相次いで当主や縁者や当主が殺害されたことで非常に苦労してきた家です。井伊直政の活躍により見事その名を復活させた井伊家ですが、徳川家が終焉を迎える幕末において、また子孫が暗殺によって命を散らすことになりました。
ペリー率いる黒船来航
1853年、日本にはペリー率いる黒船が来航します。みたこともない大きな船の存在に、日本はひっくり返ったような騒ぎになりました。日本は翌年に「日米和平条約」を結び、アメリカ人がこの日本で休んでいくことを許します。逆に言えば、この時点では「アメリカ人には休むことしか許されなかった」のです。日本としては、「条約を結ぶことで、これ以上アメリカに好き勝手させることを許さない」という狙いがあったのでしょう。しかし、話はこれで終わりませんでした。アメリカは、総領事としてハリスを日本に向かわせ、もっと本格的な条約を結ぶようにと圧力をかけてきました。当時、老中だった堀田正睦はアメリカ側との条約提携に乗り気でしたが、京都の公家たちの猛反発にあい失脚。
老中「堀田正睦」の後釜こそ井伊直弼
この後に大老となったのが井伊直弼です。そう、この井伊直弼が井伊直政の子孫にあたる人物。井伊直弼は、日本にとって不利な条件ばかりの「日米修好通商条約」を朝廷の許しなく締結してしまい、多くの批判を浴びました。さらに反対派を次々に処刑する「安政の大獄」を行いに敵を増やしてしまったのです。
桜田門外の変にて井伊家はまた家主を失う
その結果、「桜田門外の変」にて元水戸藩士たちに惨殺されてしまいます。勝手な条約提携のせいとはいえ、大老が殺害されるという事件は徳川政権の終焉を匂わせていますね。暗殺に苦しんだ井伊家は、時を超えて再び暗殺で縁者を失うことになってしまいました。
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戦国武将117名の家紋一覧をまとめてチェックしよう
織田木瓜 | 大一大万大吉 | 太閤桐 | 水色桔梗 |
石田三成 | 豊臣秀吉 | 明智光秀/山県昌景 |
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竹に二羽飛び雀/上杉笹 | 武田菱 | 真田六文銭 | 竹に雀/仙台笹 |
上杉謙信/上杉景勝/伊達成実 | 武田信玄/武田信繁/武田勝頼/安国寺恵瓊 | 真田幸村/真田昌幸 | 伊達政宗 |
蛇の目 | 徳川葵 | 黒田藤巴 | 向い蝶 |
加藤清正 | 徳川家康/徳川秀忠 | 黒田官兵衛/黒田長政 | 大谷 吉継 |
前田梅鉢/剣梅鉢 |
一文字三星 | 池田蝶 | 足利二つ引き |
前田利家/前田慶次 | 毛利元就/毛利輝元 | 池田恒興/池田輝政 | 今川義元 |
丸に立ち葵 | 九枚笹 | 二頭立波 | 二つ雁金 |
本多忠勝 | 竹中半兵衛 | 斎藤道三 | 柴田勝家 |
丸に竪木瓜 | 三つ盛木瓜に剣花菱 | 福島沢瀉 | 井伊橘 |
滝川一益 | 直江兼続 | 福島正則 | 井伊直虎/井伊直政 |
鶴丸 | 丸に細桔梗 | 丸に七つ片喰 | 剣片喰 |
森蘭丸/森長可 | 太田道灌 | 長宗我部元親 | 宇喜多秀家 |
土佐柏 | 三つ柏 | 八咫烏 | 平四つ目結 |
山内一豊 | 島左近 | 雑賀孫一 | 尼子晴久/京極高次 |
ばら藤に井桁 | 丸に違い鎌 | 蔦 | 大友抱き花杏葉 |
片倉小十郎 | 小早川秀秋 | 藤堂高虎/松永久秀 | 大友宗麟/高橋紹運/立花道雪 |
中結び祇園守 | 祇園守 | 足利二つ引き | 対い鶴 |
小西行長 | 立花宗茂 | 足利尊氏/足利義昭 | 蒲生氏郷 |
七つ割り隅立て四つ目 | 細川九曜 | 笹龍胆 | 丹羽直違 |
佐々成政 | 細川忠興 細川藤孝 |
源頼朝 | 丹羽長秀 |
丸に片喰 | 榊原源氏車 | 三つ盛り木瓜 | 違い鷹の羽 |
酒井忠次 | 榊原康政 | 朝倉義景 | 片桐且元 |
下がり藤 | 黒餅 | 北条対い蝶 | 丸に二つ引き |
加藤嘉明 | 黒田長政 | 北条早雲 | 最上義光 |
三つ盛り亀甲に花菱 | 丸に十文字 | 蜂須賀卍 | 七曜 |
浅井長政 | 島津義弘/島津貴久/島津貴久/島津義久 | 蜂須賀 小六(正勝) | 高山右近/九鬼嘉隆 |
津軽牡丹 | 北条鱗 | 丸に上の字 | 右三つ巴 |
津軽為信 | 北条氏康/北条氏政 | 村上義清/村上武吉 | 結城秀康/清水宗治/山本勘助/小早川隆景 |
永楽銭 | 梅鉢 | 変わり十二日足 | 丸に三つ引き |
仙石秀久 | 筒井順慶 | 龍造寺隆信 | 吉川広家 |
丸に違い鷹の羽 | 五七桐 | 生駒車 | 九条下がり藤 |
浅野幸長/浅野長政 | 豊臣秀次/斎藤義龍/豊臣秀長 | 生駒正俊 | 本願寺顕如 |
丸に揚羽蝶 | 吾亦紅/地楡に雀 | 丸に三つ葵 | 輪違い |
平清盛 | 柳生宗矩 | 松平忠吉 | 脇坂安治 |
鍋島花杏葉 | 結城巴 | 揚羽蝶 | 唐花紋 |
鍋島勝茂 | 松平忠直 | 吉川元春 | 陶晴賢 |
抱き茗荷 | 五本骨扇に月丸 | ||
堀尾吉晴 | 佐竹義重 |
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