戦国時代というと、馬に乗って旗を持って「さあ刀を持って合戦!」というイメージが強いのですが、実はこの時代は「海賊」の全盛期でもありました。この「海賊」の中でも、最大の勢力と言われたのが村上武吉の「村上水軍」。戦国時代を武将とは別の形で戦い抜き、そして消えていった「村上水軍」と村上武吉についてまとめてみました。かつて、日本に生きた海賊の物語をご覧ください。
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目次
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「水軍」なのに「海賊」と言われてしまうワケ
冒頭で「海賊」という書き方をしていますが、村上武吉が率いていたのは「水軍」です。簡単に言うと、船に乗って戦う兵力のことですね。村上武吉のいた「村上水軍」は、瀬戸内海で勢力を誇っていた水軍で、その歴史は平安時代にさかのぼると言われています。武吉の代で村上水軍は最大の勢力を誇るようになり、この時代の大規模な水軍として名をとどろかせるようになりました。ちなみに、水軍には他にも九鬼水軍(こちらの水軍も凄まじい強さと有名ですね)、土佐水軍(高知県)、宇喜多水軍(岡山県)などがあります。
村上水軍が海賊と呼ばれる理由は?
では、どうしてその村上水軍が「海賊」と呼ばれるようになったのでしょう?それは、日本を訪れたイエスズ会の宣教師「ルイス・フロイス」が遺した「日本史」の中の記述に理由があります。「私たちが訪れた瀬戸内海には大きな海賊がいて、他の船を襲っていた。だから、沿岸のひとたちは襲撃にあわないように毎年貢物をしていた」……これを信じれば、やってることは「海賊」でしかないわけです。実際に「海賊」と書かれてしまっていますしね。この影響が強いので「海賊」と言われることも多いのです。とはいえ、実態は少し違うようで「瀬戸内海を通ろうとする船から運行料を徴収し、海を安全に渡れるようにしていた」そう。海となれば危険も多いので、警護を引き受けたり、案内人もやってくれたとか。こちらだと「海賊」とはちょっとイメージが違いますよね。
村上水軍を有名にした「厳島の戦い」
村上水軍を有名にしたのは、毛利元就と陶晴賢の間で起きた「厳島の戦い」です。陶晴賢はもともと「大内氏」の傘下で働いており、陶晴賢も大内家の家臣でした。しかし、主の行動に疑問を感じた晴賢は、謀反を起こして大内家の当主を殺害してしまいます。それにより大内家は力をなくし、この晴賢が実権を握るようになるのです。そして、陶晴賢は毛利家と戦うことになるのですが、毛利家の当主・元就は村上水軍に「一日だけ味方になってほしい」とお願いしました。武吉側も晴賢に思うことがあったのか、これを承諾。後に起きた「厳島の戦い」では退却仕様とする陶軍を阻み、追い込まれた晴賢は自害でこの世を去っています。村上水軍に「味方になってくれ」というあたりは、さすが聡明な毛利元就ですよね。その後も元就に協力して大内氏攻めに協力もしていますが、味方というわけではなく、のちに九州の大友氏の方についています。このあたりの世当たりのうまさも、海で生きていくには必要なことなのかもしれません。
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海賊たちの終焉~そして元吉の死
刀を振るって敵を討つ「猛将」と言われる武将が、徳川幕府ができて平和な時代になると立場をなくしていったように、海賊にも「終わる日」がきました。武吉の息子・村上元吉は、毛利・本願寺について織田信長と戦います(第一次木津川口の戦い)。この戦いで村上水軍は織田家の船を燃やして大勝し、織田軍の名だたる武将たちを討ち取ることにも成功しました。しかし、この勝利は織田信長をこれ以上ないほど怒らせました。敗戦に怒り狂った信長は、自身の家臣であった九鬼嘉隆(九鬼水軍を率いた人物ですね)に「燃えない船を作れ」と命じます。この命により、義隆は鉄でできた大きな鉄甲船を作り上げました。そして、第二次木津川川口の戦いで村上水軍は敗れ去るのです。
豊臣秀吉の時代の到来
信長が「本能寺の変」で討ち死にすると、時代は豊臣秀吉の天下統一に向けて動いていきます。秀吉と毛利家が和睦して「来島を渡せ」と言われても拒否したり、秀吉の四国攻めへの協力も拒んだり、武吉は誰の味方になることもなく、独立した勢力としての立場を守り抜きました。その行動が危険視されたのでしょう。毛利元就の息子・小早川隆景によって武吉たちがいた「能島」は討伐されてしまい、そこにはいられなくなりました。武吉たちは必然的に自由気ままな海賊をやめさせられ、小早川隆景の家臣として生きることになったのです。かつて、瀬戸内で栄華を極めた村上水軍の運命は過酷なものでした。秀吉は、武吉たちのような海賊たちがやってきた「通行料を取る」という行為を禁じます。武吉はそれも聞かずに立場を変えませんでしたが、秀吉を怒らせて辞めざるをえませんでした。ここで、村上水軍は完全に消滅。ただし、息子たちは決まりを守りながら水軍であることは続けています。武吉は前線に出ることなく、1604年に亡くなりました。どんなに強くなって栄華を極めても、時代が変わればいずれ終わる日が来る。村上水軍を見ると、そんな栄枯盛衰の悲しさを感じずにはいられません。
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村上武吉の家紋とは
村上武吉の家紋は「丸に上の字」。解りやすい家紋ですね。
この家紋は「文字紋」と言われ、文字を家紋にしたものになります。
「丸に上の字」の紋を付けた船たちが、瀬戸内を悠々と横切っていくところを思い浮かべると、なんともロマンがあります。現代でも、この家紋は「村上水軍」のシンボルとして良く知られています。
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戦国武将117名の家紋一覧をまとめてチェックしよう
織田木瓜 | 大一大万大吉 | 太閤桐 | 水色桔梗 |
石田三成 | 豊臣秀吉 | 明智光秀/山県昌景 |
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竹に二羽飛び雀/上杉笹 | 武田菱 | 真田六文銭 | 竹に雀/仙台笹 |
上杉謙信/上杉景勝/伊達成実 | 武田信玄/武田信繁/武田勝頼/安国寺恵瓊 | 真田幸村/真田昌幸 | 伊達政宗 |
蛇の目 | 徳川葵 | 黒田藤巴 | 向い蝶 |
加藤清正 | 徳川家康/徳川秀忠 | 黒田官兵衛/黒田長政 | 大谷 吉継 |
前田梅鉢/剣梅鉢 |
一文字三星 | 池田蝶 | 足利二つ引き |
前田利家/前田慶次 | 毛利元就/毛利輝元 | 池田恒興/池田輝政 | 今川義元 |
丸に立ち葵 | 九枚笹 | 二頭立波 | 二つ雁金 |
本多忠勝 | 竹中半兵衛 | 斎藤道三 | 柴田勝家 |
丸に竪木瓜 | 三つ盛木瓜に剣花菱 | 福島沢瀉 | 井伊橘 |
滝川一益 | 直江兼続 | 福島正則 | 井伊直虎/井伊直政 |
鶴丸 | 丸に細桔梗 | 丸に七つ片喰 | 剣片喰 |
森蘭丸/森長可 | 太田道灌 | 長宗我部元親 | 宇喜多秀家 |
土佐柏 | 三つ柏 | 八咫烏 | 平四つ目結 |
山内一豊 | 島左近 | 雑賀孫一 | 尼子晴久/京極高次 |
ばら藤に井桁 | 丸に違い鎌 | 蔦 | 大友抱き花杏葉 |
片倉小十郎 | 小早川秀秋 | 藤堂高虎/松永久秀 | 大友宗麟/高橋紹運/立花道雪 |
中結び祇園守 | 祇園守 | 足利二つ引き | 対い鶴 |
小西行長 | 立花宗茂 | 足利尊氏/足利義昭 | 蒲生氏郷 |
七つ割り隅立て四つ目 | 細川九曜 | 笹龍胆 | 丹羽直違 |
佐々成政 | 細川忠興 細川藤孝 |
源頼朝 | 丹羽長秀 |
丸に片喰 | 榊原源氏車 | 三つ盛り木瓜 | 違い鷹の羽 |
酒井忠次 | 榊原康政 | 朝倉義景 | 片桐且元 |
下がり藤 | 黒餅 | 北条対い蝶 | 丸に二つ引き |
加藤嘉明 | 黒田長政 | 北条早雲 | 最上義光 |
三つ盛り亀甲に花菱 | 丸に十文字 | 蜂須賀卍 | 七曜 |
浅井長政 | 島津義弘/島津貴久/島津貴久/島津義久 | 蜂須賀 小六(正勝) | 高山右近/九鬼嘉隆 |
津軽牡丹 | 北条鱗 | 丸に上の字 | 右三つ巴 |
津軽為信 | 北条氏康/北条氏政 | 村上義清/村上武吉 | 結城秀康/清水宗治/山本勘助/小早川隆景 |
永楽銭 | 梅鉢 | 変わり十二日足 | 丸に三つ引き |
仙石秀久 | 筒井順慶 | 龍造寺隆信 | 吉川広家 |
丸に違い鷹の羽 | 五七桐 | 生駒車 | 九条下がり藤 |
浅野幸長/浅野長政 | 豊臣秀次/斎藤義龍/豊臣秀長 | 生駒正俊 | 本願寺顕如 |
丸に揚羽蝶 | 吾亦紅/地楡に雀 | 丸に三つ葵 | 輪違い |
平清盛 | 柳生宗矩 | 松平忠吉 | 脇坂安治 |
鍋島花杏葉 | 結城巴 | 揚羽蝶 | 唐花紋 |
鍋島勝茂 | 松平忠直 | 吉川元春 | 陶晴賢 |
抱き茗荷 | 五本骨扇に月丸 | ||
堀尾吉晴 | 佐竹義重 |
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