「細川幽斎」の名称で有名な武将・細川藤孝。武将・細川忠興の父です。彼も武将なのですが、実は武勲よりも和歌や茶道の道で有名な人物です。(※ここでは「細川藤孝」で統一してご紹介しています)そんな彼の家紋と生涯について解説していきます。
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目次
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和歌の才能は日本随一、多くの弟子を抱えていた藤孝
血なまぐさい戦があちこちで行われていた戦国時代であっても、相変わらず「茶道」「和歌」などをたしなみ、ひそかな楽しみにしている武将や公家たちはたくさんいました。その中で、ひときわ目立っていたのが細川藤孝です。
三条西家に評価された和歌の才能
彼は、他の人間が「どう和歌を作ろう?」と悩んでいる間に次々と和歌を完成させるほどの才能の持ち主で、武将からも公家からも、そして平民たちからも一目置かれる存在だったのです。
この才能を高く評価したのが、「三条西家」という家の実技という人物でした(公家の方ですね)。
誰でも彼でも理解できるわけではなかった古今和歌集
さて、ここで登場するのが「古今和歌集」の存在。「古今和歌集」とは平安時代にまとめられた歌集のことで、紀貫之や小野小町といった有名な歌人たちの歌をまとめたものです。この「古今和歌集」に掲載されている和歌は、戦国時代において「和歌の基礎」と呼ばれるほどに大切にされており、掲載されている和歌の解釈は最も関心があるものでした。
古今伝授を受けていたのは実技一人
しかし、重要なものだけに誰でもその解釈を知ることができるわけではなかったようで、解釈は「古今伝授」として限られた人物に伝授されていったそうです。そして、その「古今伝授」を受けていたのが実技でした。この時、古今伝授を受けたのは実技一人。
古今伝授を実技かた受け継いだ藤孝
彼は孫にそれを伝えたかったようですが、孫があまりに幼いために藤孝に一時的に伝授したそうです。その後、実技はすぐに亡くなったため、古今伝授を受けたのは藤孝一人になってしまいました。これが、彼の運命を変えたのです。
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あわや、藤孝が殺されるかもしれない事態に天皇が動いた!
そんな藤孝の状況が一変したのは、石田三成と徳川家康の間で起きた「関ヶ原の戦い」です。挙兵した石田三成は、徳川家康に味方している武将の妻を人質にとるという作戦に出ました。
関ケ原の戦いで三成に狙われた藤孝
この時、藤孝の息子・細川忠興の妻「細川ガラシャ」のことも人質にしようとしたのです。しかし、ガラシャは三成の要請を断り、屋敷に火をつけて自害。この事態に慌てた三成は、「では忠興の父・藤孝を攻めよう」と考え、藤孝のいる田辺城を目指します。
天皇が三成に「藤孝を殺すな」
これに慌てたのが、他でもない天皇でした。和歌を愛する天皇は、この世でたった一人「古今伝授」を受けた藤孝が亡くなることを懸念し、「藤孝を殺さないように」と西軍に伝えたのです。天皇の命令ですから、さすがの西軍も藤孝を攻撃するわけにはいかず「城を捨てれば命はとらない」と藤孝側に伝えました。
天皇の勅令により城を解放した藤孝
しかし、藤孝は「戦わずして逃げることは武士として恥である」と考え、動こうとしません。西軍としては戦うわけにはいかず、かといって兵をひくこともできず、膠着状態のまま二か月が経過。そこで、天皇は勅命を出して「城を開放して、出なさい」と藤孝に言いました。「勅命」は天皇の命令であり、絶対に聞かなければならないものです。藤孝は言われたとおりに城を開放しました。「天皇が直々に命令を出して助けるほど、藤孝が受けた古今伝授は重要なものであった」ということです。
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「関ヶ原の戦い」のあとは、孫夫婦の面倒を見た藤孝
さて、先に紹介した「細川ガラシャ」の件に戻ります。屋敷を包囲した石田三成のもとに下ることを拒否したガラシャは、自ら屋敷に火をつけて自害します。※この時点でガラシャはキリスト教の洗礼を受けていたため、自ら死ぬのではなく火に包まれて自分が死ぬのを待ったと言われています。
息子の忠興に追放された忠隆は細川家を離れて祖父藤孝と暮らす
これを知った忠興の息子・忠隆の妻「千代」は、すぐに屋敷を出て姉の豪姫(前田利家の娘)のもとへ逃げました。しかし、忠興は息子の妻が逃げたことを咎め、忠隆に「離縁するように」と命じます。忠隆は妻を庇ってこれに反発。結果、忠隆は細川を追放されてしまい、祖父の細川藤孝のもとで生活をしました。
ガラシャを愛した忠興と千代を愛した忠隆
千代は豊臣秀吉の家臣・前田利家の娘だったので、豊臣家を滅ぼした徳川家康からはよく思われてしませんでした。忠興は、家康からにらまれないように千代を追い出したかったようですが、忠隆はよほど妻が大事だったのでしょう。忠興もガラシャをとても愛していたと伝わっているので、この辺りは血筋でしょうか。藤孝は二人の生活をささえており、孫にも恵まれています。のちに忠隆は忠興と和解し、忠興に孫をみせることもできました。父の藤孝、その子である忠興は優れた芸術的才能を持っていましたが、この忠隆もそうだったようで、茶の湯や能楽の世界に大きな貢献をしています。
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細川藤孝の家紋は「丸に二引き両紋」
細川藤孝の家紋は、「丸に二引き両紋」です。この家紋は、室町幕府の将軍・足利家が代々使用していたことで有名ですね。細川家は足利尊氏に仕えていた家なので、その縁からのものでしょう。引き両は「引き」とも呼び、横に惹かれた太い直線を一本から三本描いたものです。発祥についてははっきりしたことがわかっておらず、「龍の姿を表したもの」や「霊を表したもの」など諸説あります。
太い線の引き両紋は力強さを表現し、武家の間で好まれていました。戦場の場で旗印として使用したのが始まりで、やがて家紋として定着します。使用地域は関東かた東北地方で多く見られますが、有名なのは足利一族の「丸に二つ引き」や、新田氏の「新田一つ引き」です。直線は横に配置したものが一般的ですが、中には縦に配置したものもあり、丸に竪三つ引きや、丸に竪二つ引きなどがあります。また、互い違いに描いた喰い違い七引もあります。
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戦国武将117名の家紋一覧をまとめてチェックしよう
織田木瓜 | 大一大万大吉 | 太閤桐 | 水色桔梗 |
石田三成 | 豊臣秀吉 | 明智光秀/山県昌景 |
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竹に二羽飛び雀/上杉笹 | 武田菱 | 真田六文銭 | 竹に雀/仙台笹 |
上杉謙信/上杉景勝/伊達成実 | 武田信玄/武田信繁/武田勝頼/安国寺恵瓊 | 真田幸村/真田昌幸 | 伊達政宗 |
蛇の目 | 徳川葵 | 黒田藤巴 | 向い蝶 |
加藤清正 | 徳川家康/徳川秀忠 | 黒田官兵衛/黒田長政 | 大谷 吉継 |
前田梅鉢/剣梅鉢 |
一文字三星 | 池田蝶 | 足利二つ引き |
前田利家/前田慶次 | 毛利元就/毛利輝元 | 池田恒興/池田輝政 | 今川義元 |
丸に立ち葵 | 九枚笹 | 二頭立波 | 二つ雁金 |
本多忠勝 | 竹中半兵衛 | 斎藤道三 | 柴田勝家 |
丸に竪木瓜 | 三つ盛木瓜に剣花菱 | 福島沢瀉 | 井伊橘 |
滝川一益 | 直江兼続 | 福島正則 | 井伊直虎/井伊直政 |
鶴丸 | 丸に細桔梗 | 丸に七つ片喰 | 剣片喰 |
森蘭丸/森長可 | 太田道灌 | 長宗我部元親 | 宇喜多秀家 |
土佐柏 | 三つ柏 | 八咫烏 | 平四つ目結 |
山内一豊 | 島左近 | 雑賀孫一 | 尼子晴久/京極高次 |
ばら藤に井桁 | 丸に違い鎌 | 蔦 | 大友抱き花杏葉 |
片倉小十郎 | 小早川秀秋 | 藤堂高虎/松永久秀 | 大友宗麟/高橋紹運/立花道雪 |
中結び祇園守 | 祇園守 | 足利二つ引き | 対い鶴 |
小西行長 | 立花宗茂 | 足利尊氏/足利義昭 | 蒲生氏郷 |
七つ割り隅立て四つ目 | 細川九曜 | 笹龍胆 | 丹羽直違 |
佐々成政 | 細川忠興 細川藤孝 |
源頼朝 | 丹羽長秀 |
丸に片喰 | 榊原源氏車 | 三つ盛り木瓜 | 違い鷹の羽 |
酒井忠次 | 榊原康政 | 朝倉義景 | 片桐且元 |
下がり藤 | 黒餅 | 北条対い蝶 | 丸に二つ引き |
加藤嘉明 | 黒田長政 | 北条早雲 | 最上義光 |
三つ盛り亀甲に花菱 | 丸に十文字 | 蜂須賀卍 | 七曜 |
浅井長政 | 島津義弘/島津貴久/島津貴久/島津義久 | 蜂須賀 小六(正勝) | 高山右近/九鬼嘉隆 |
津軽牡丹 | 北条鱗 | 丸に上の字 | 右三つ巴 |
津軽為信 | 北条氏康/北条氏政 | 村上義清/村上武吉 | 結城秀康/清水宗治/山本勘助/小早川隆景 |
永楽銭 | 梅鉢 | 変わり十二日足 | 丸に三つ引き |
仙石秀久 | 筒井順慶 | 龍造寺隆信 | 吉川広家 |
丸に違い鷹の羽 | 五七桐 | 生駒車 | 九条下がり藤 |
浅野幸長/浅野長政 | 豊臣秀次/斎藤義龍/豊臣秀長 | 生駒正俊 | 本願寺顕如 |
丸に揚羽蝶 | 吾亦紅/地楡に雀 | 丸に三つ葵 | 輪違い |
平清盛 | 柳生宗矩 | 松平忠吉 | 脇坂安治 |
鍋島花杏葉 | 結城巴 | 揚羽蝶 | 唐花紋 |
鍋島勝茂 | 松平忠直 | 吉川元春 | 陶晴賢 |
抱き茗荷 | 五本骨扇に月丸 | ||
堀尾吉晴 | 佐竹義重 |
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