ある意味、家紋の中で一番有名なのは「桔梗紋」なのかもしれません。というのも、桔梗紋を使った著名人には悲劇的な亡くなり方をした人物が二人もいるからです。優雅で美しい家紋であるにも関わらず、どこか悲しい印象もある桔梗紋。その成り立ちと、なぜ「悲劇の家紋」と言われるようになってしまったのかを解説します。
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目次
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桔梗紋の2つの由来説を解説
「吉凶」が「桔梗」になり、家紋となった説
その昔、桔梗の花は「吉凶を占う花」として使われていました。花を投げ、それを見て運勢が吉なのか,凶なのかを占ったのです。「吉凶」という言葉は、やがて「キキョウ=桔梗」となり、花の名前として根付いていったのです。
運命なのか、それとも偶然なのか。桔梗の花はやがて多くの武将たちの家紋となり、そして桔梗紋を使った武将たちは運命的な最期を遂げることになります。
元々は土岐氏が多く使用していた家紋です
桔梗紋は、美濃(今の岐阜県)に一大勢力を築いた「土岐氏」が使用していた家紋です。戦国時代には斎藤道三に敗れて立場を失いますが、土岐氏の分家に生まれた明智光秀・浅井長政は武将として戦国の世を生きることになります。とはいえ、明智光秀も浅井長政も悲しい最期を迎えているところをみると、桔梗紋の悲劇は分家にまで及ぶのかと考えたくなります…。
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桔梗紋の種類
桔梗紋
すべての桔梗紋のもとになる家紋。明智光秀や加藤清正が使っていたのも、この桔梗紋です。
丸に桔梗紋
桔梗の花を、丸で囲んだもの。家紋は、もともとの家紋を丸で囲んだデザインのものがすごく多いですね。
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丸に細桔梗
細い桔梗を模したデザインで女紋や替え紋としてよく使われていました。戦国武将では太田道灌も使っていたのがこの細桔梗です。
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組合角に桔梗紋
有名すぎるほど有名な家紋。なぜなら、この家紋は坂本龍馬が使っていた家紋だからです。桔梗紋はどれも非常に有名ですが、中でもこの「組合角に桔梗紋」の知名度は抜群。
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桔梗紋まとめ
桔梗紋 | 丸に桔梗 | 太田桔梗 | 亀甲に桔梗 | 三つ盛り桔梗 |
八重桔梗 | 丸に細桔梗 | 陰桔梗 | 中陰三つ割り桔梗 | 蔓桔梗 |
中陰八重桔梗 | 横見桔梗 | 結び桔梗 | 石持ち地抜き桔梗 | 五瓜に桔梗 |
藤輪に桔梗 | 隅切り角に桔梗 | 上がり藤に桔梗 | 桔梗桐 | 花桔梗枝丸 |
桔梗紋を使った戦国武将・有名人
明智光秀
「桔梗紋と言えば、明智光秀」と言われるほどに、桔梗紋は光秀の代名詞になっています。
明智光秀はもともと朝倉家というところに仕えていましたが、そこから織田信長に仕えるようになりました。
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織田信長の重臣としてかなりの信頼を得ていましたが「本能寺の変」で信長を裏切り、自害に追い詰めたことはあまりに有名。今でも「明智光秀=裏切り者」とイメージされるほどです。
戦国時代を調べてみると、信長の死でその後の人生が狂った人がたくさんいるため、光秀がやった裏切りが本当に大きなことであったということが解ります。
長曾我部元親の家臣が信長討ちを計画した!?
「どうして信長を討ったのか」については長い間謎とされてきましたが、岡山県の県立博物館・林原美術館が近年に手紙を発見。この内容が、「本能寺の変」に関わっていると推測されています。
手紙は、四国の大名・長曾我部元親の家臣から明智光秀の家臣・斉藤利三にあてられたものです。
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高知県にある元親像。斉藤は信長と元親の交渉を任されていたのですが、このころの信長は「四国は長曾我部の好きにしていい」と元親が支配することを認めていました。ところが、本当に元親が四国を平定すると、その力を危険視し始めたのです。そこで、間に入る人物を斉藤から羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)交代させ、「阿波(徳島)と土佐(高知)のみにしろ」と命じました。
最初に「四国は好きにしていい」と言われていた元親は激怒。それでも、当時の信長や秀吉の力を知っていたので「いうことを聞く」と斎藤に手紙を書きました。今回発見されたのは、この恭順の意思を示す手紙です。この手紙が出されたのが5月21日。本能寺の変が起きたのは、今でいう6月2日。日数から見ても、四国からの手紙がこの日数で光秀のもとに届いたとは考えにくいです。ただ、手紙がなくても元親が恭順することを光秀は解っていたのかもしれません。しかし、この時信長は四国攻めしようとしていました。恭順しようとしている元親が、このままだと信長に攻められて滅ぼされてしまう。それを止めるために、光秀は信長を討ったのではないか?という説が、この手紙により有力になりました。
今までは、信長が最初に「四国を平定してもいいよ」と言ったことも解っていなかったので、この手紙の存在は歴史的な発見になります。これが本当となれば光秀のイメージも大きく変わりますし、桔梗紋のイメージも変わりそうです。光秀の家紋は「桔梗紋」。
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坂本龍馬
こちらも、あまりに有名すぎる幕末の志士。
●坂本龍馬の桔梗紋 – 幕末の志士で薩長同盟を結んだ国民的ヒーロー –
土佐(ここでも土佐が出てくる…高知県は意外に歴史に深く関わっていますね)から出奔した龍馬は、幕末に長州(山口)と薩摩(鹿児島)の「薩長同盟」を結ぶことに協力しています。当時、長州と薩摩は非常に折り合いが悪く、手を組むなどということは考えられなかったのですが、徳川幕府の世の中に憂いがあるということは共通していました。そこで、龍馬と中岡慎太郎が仲介をして「薩長同盟」を締結させたのです。
新しい世のために尽力した龍馬ですが、志半ばで暗殺され、この世を去りました。この暗殺の犯人が謎とされてきましたが、近年では京都見回り組の行いという説が有力です。当初は新選組の原田左之助も疑われていたとか。
家紋は「組合角に桔梗紋」。
加藤清正
明智・龍馬ほどではありませんが、加藤清正もちょっと…な亡くなり方をしていますね。
●加藤清正の生涯と家紋「蛇の目」と「桔梗紋」について|熊本城を作った戦国武将
秀吉の忠臣であり、秀吉のことを心から慕っている家臣でしたが、その慕う心がのちの判断を狂わせた…と思われる節があります。秀吉亡き後、豊臣家は石田三成派とそれ以外の武将たちで対立をしてしまいます。
その対立した武将に、加藤清正もいました。三成を排除したい清正は、同じく秀吉の家臣であった福島正則らとともに徳川家康に接近。「関ヶ原の戦い」でも、家康についています。結果、家康が勝ち三成は処刑。
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太閤紋 | 大一大万大吉 | 福島沢潟 | 徳川葵 |
豊臣秀吉の家紋 | 石田三成の家紋 | 福島正則 | 徳川家康の家紋 |
「関ヶ原の戦い」は、当時の感覚だと「豊臣家内の派閥争い」なのですが、「天下分け目の関ケ原」と言われる通り、結局はこの戦がその後の覇者を決めてしまいます。清正は石田三成を排除したかっただけで、豊臣を滅ぼそうという気持ちはなかったようですが、家康は豊臣家を滅亡に追いやってしまいました。清正自身は、豊臣家の滅亡を見ることなく突然亡くなっています。これも「暗殺ではないか」などという話しも。
自らの選択が、何よりも大事だった豊臣家を滅ぼす要因になったと考えると、清正もまた「悲劇の人」なのでしょう。家紋は桔梗紋(裏紋)。
山県昌景
やまがた まさかげ と読みます。武田信玄に仕えていた家臣で、「赤揃え」という赤の鎧を着用した優秀な兵を率いていたことで有名。
●山県昌景の家紋と生涯|武田二十四将の一人として知られる武田家最強の戦国武将
彼の武勇は戦国の世にとどろいており、昌景の首は武田軍との戦で一番の価値がつけられたと記録されるほど。猛将で知られ、昌景に憧れた真田信繁(幸村)や井伊直政が赤い鎧を身につけたと言われています。
●武田信玄の家紋の由来を画像付きで解説!商標登録もされる武田菱紋
●真田幸村の家紋の由来を解説!大坂夏の陣で真田六文銭が大活躍
●井伊直政の家紋について|井伊直虎が守り抜いた井伊家の血脈
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その他の有名人
横山隆一
高知県出身の漫画家。「フクちゃん」などの漫画で有名ですね。高知県には、彼の名前を冠した漫画の図書館があります。家紋は「桔梗紋。
子母澤寛
新選組の当時の様子を記述した「新選組遺聞」が有名。ただ、この本の内容には是非もあります。家紋は桔梗紋。
安倍晴明
家紋と言えるかどうかはちょっと疑問ですが、陰陽師の「安倍晴明」は「清明桔梗」と言われる桔梗紋を使用しています。どう見ても星にしか見えませんが、これも桔梗紋が進化したものとか。
こんなところにも桔梗紋が使われていることにびっくりです。他にも、造園家の長岡安平もこの清明桔梗紋を使用しています。
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