大坂夏の陣|家紋で見る合戦シリーズvol.31

豊臣家の滅亡、そして真田幸村最期の戦いとなった『大坂夏の陣』。

10万以上の兵力差を持ち、徳川方が圧倒的優位な状況ながらも真田幸村の決死の突撃によって徳川家康は切腹を覚悟したほどだとされています。

今回はそんな『大坂夏の陣』を出陣した武将の家紋とともに見ていきます。

■1分で分かる大坂夏の陣

『大阪冬の陣』の後によって結ばれた和議によって、大阪城の外堀は埋め立てられ防御機能を失っていました。

さらに、豊臣方は冬の陣を戦った牢人衆を手厚く保護したため、徳川方は豊臣方が再び戦の準備をしていると判断し、出陣を決意します。

大阪城の防御機能を失った豊臣方は籠城ではなく、城外に出て徳川方と真っ向から対峙する道を選びます。

しかし、圧倒的な兵力差を前に豊臣方は追い詰められます。そして、この状況を逆転する一手として真田幸村が徳川家康が陣取る本陣を急襲し、首を狙う作戦を実行します。

幸村は狙い通り、徳川本陣にまで近づき家康が切腹を覚悟させるまで追い詰める働きを見せますが、あと一歩の所で豊臣方の味方が崩れてしまい退却。

敵陣の奥深くまで侵入していた幸村は退却の途中、徳川方の西尾仁左衛門に討ち取られてしまいました。

そして、あとがなくなった豊臣方は淀殿と秀頼が自害。大阪城も陥落し、豊臣家は滅亡となったのでした。

■冬の陣で戦果で大坂城の外堀が埋められる

『大阪冬の陣』の後、豊臣家と徳川家の間で講和が結ばれました。

内容は「豊臣軍として戦った牢人衆たちの不問」「秀頼の身の安全の確保」「大阪城の堀を埋め立てる」などでした。

そして、この講和を履行することによって徳川軍は大阪城の外堀を埋め、事実上の防御機能を失わせることに成功しました。

この時、徳川方はいつか来る豊臣方との戦を前に先手を打っていたものと考えられています。

■1615年大坂夏の陣!開戦

豊臣軍(武将)

豊臣秀頼、真田幸村など 

徳川軍(武将)

徳川家康、徳川秀忠、上杉景勝など 

結ばれた講和によって「豊臣軍として戦った牢人衆たちの不問」とされていましたが、代わりに豊臣方に二度と加担しないとの約束もされていました。 

しかし、豊臣方は牢人衆を手厚く保護したため、徳川方は「豊臣がまた戦の準備をしている」と判断して、「戦の意思がないならば大阪城の明け渡しをせよ」と迫ります。 

当然、豊臣方は拒否。そのため、徳川軍は再度、大阪へ出陣しました。 

 (家紋) 

豊臣家・・・「五三桐」、「五七桐」 

桐紋という家紋を用いています。古来は天皇家に使われていた家紋でしたが、武家社会に広がっていき豊臣秀吉が利用しました。今日では日本政府が使用している紋章でもあります。 

 徳川家・・・「徳川紋」 

京都にある「加茂神社」に由来する家紋で葵紋とも呼ばれています。加茂神社と武将の結びつきが強くなったことがきっかけに徳川家の家紋としても使用されてきました。 

★15万の徳川軍に対して5万の豊臣軍

『大坂夏の陣』へ向けて、徳川軍は総勢15万の兵を差し向けます。

対する豊臣軍は総勢5万と徳川軍とは3倍の兵力差がありました。加えて、先述したように大阪城の外堀を埋められてしまっていたため、大阪城での籠城作戦も使えないなど合戦前から窮地に追い込まれていました。 

★死を覚悟した幸村に追いつめられる家康

大阪城の防御機能を失った豊臣方は籠城ではなく、城外に出て徳川軍と真っ向から対峙する道を選びます。 

しかし、数に勝る徳川軍を前に敗退の一途を辿ってしまいます。 

 

そして、豊臣軍は状況を打開するため決死の作戦を立てます。 

その作戦とは、「徳川本陣を強襲し、家康の首を討ち取る」というものでした。そして、この作戦の中心に選ばれたのが真田幸村でした。

幸村は秀頼の出陣を合図として、幸村の隊と別働隊で一気に徳川軍本陣を迫ろうとします。

少数で敵の本陣に切り込むということは死の危険性が最も高いということです。

そして、幸村は狙い通り、徳川本陣にまで近づき家康が切腹を覚悟させるまで追い詰める働きを見せます。

その回数はおよそ3回と言われており、数に怯むことなく強襲して来る鬼気迫る幸村の姿に家康は切腹を覚悟させるまで追い詰められたと言われています。

しかし、あと一歩の所で豊臣方の味方が崩れてしまい退却を余儀なくされ、家康を討つまでには至りませんでした。

■秀頼と淀殿の自殺で終焉

敵陣深くまで切り込んだ幸村が退却するのは容易ではなく、安居神社で身体を休めようとしたところを西尾仁左衛門に討ち取られてしまいました。幸村の死とほぼ同時に大阪城は火の手に包まれ、秀頼と淀殿は自害の道を選びました。そしてここに豊臣家の滅亡が決まりました。 

■まとめ

いかがでしたか? 

3倍もの兵力差ながら徳川本陣まで強襲し、家康に切腹の覚悟までさせた幸村の功績は大きく知れ渡り、のちに『真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)』と言われるまでとなりました。

幸村が家康を討ち取っていたら、その後の日本の歴史は大きく変わっていたことでしょう。

以上、真田幸村と豊臣家の最後の戦い『大坂夏の陣』でした。 

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