姉川の戦い|織田信長が浅井・朝倉軍を討つ!徳川家康も参戦|家紋で見る合戦

姉川の戦いと言えば、織田信長と浅井長政が戦った戦いとして非常に有名ですよね。妹・お市の方の夫でもある浅井長政と織田信長は、どうして闘わなければならなかったのでしょう?因縁の戦いを詳しく見ていきましょう

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1分でわかる姉川の戦い

織田・徳川連合軍 浅井・朝倉連合軍
織田信長について織田信長徳川家康

浅井長政朝倉義景

徳川家康柴田勝家木下秀吉丹羽長秀佐々成政池田恒興酒井忠次榊原康政本多忠勝 浅井長政朝倉義景藤堂高虎
13,000~40,000人 13,000~30,000人

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  1. 織田信長が朝倉義景を攻める

    「姉川の戦い」のきっかけは、織田信長が朝倉義景という武将を攻めたことです。朝倉家と浅井家は強い信頼関係があり、浅井家の当主・長政は「朝倉家と戦うことになったら、自分に教えてほしい」と同盟相手の信長に言っていたほどでした。ところが、信長はその約束を破って、浅倉家を攻撃してしまうのです。
  2. 信長の朝倉家攻撃を知った長政は激怒!

    信長が約束を守らなかったことに激怒した長政は、織田家との同盟を破棄。兵をあげて織田軍に襲い掛かり、織田軍は朝倉軍攻めを切り上げて撤退しなければならなくなりました。もちろん、信長は大激怒。
  3. 信長が長政の「小谷城」へ向けて挙兵

    怒った信長は、その二か月後に長政の「小谷城」にむけて挙兵。ここに徳川家康も参加し、「姉川」という川を挟んで両軍の戦いが始まるのです。

姉川の戦い

浅井長政との約束を無視して朝倉軍を攻める信長

浅井長政のいる浅井家と、朝倉義景の浅倉家は同盟関係にありました。浅井家は朝倉家に助けられたこともあり、良好な関係を保ってここまできたのです。そのこともあって、婚姻関係で織田家とも縁があった浅井長政は「朝倉家を攻撃する時は、自分に知らせてほしい」と言っていました。

しかし、信長はその約束を守ることなく、朝倉義景を攻撃してしまいます。信長が朝倉義景を攻撃した理由は、義景側に悪いところも多々あったのですが、「朝倉家を攻撃する時は知らせる」という約束を反故にされた長政は信長に不信感を抱き、織田家との同盟を破棄。

そして、織田軍を攻めて朝倉義景を助けます。あわや挟み撃ちの絶体絶命の危機の中で、信長は退却。ちなみに、この時に織田軍の「殿」を務め、退却に大きく貢献したのが羽柴秀吉です。この長政の行動が、織田信長を激怒させました。

浅井長政の妻・お市の方は信長の妹

織田信長は、まさか浅井長政が攻めてくるとは思わなかったでしょう。約束を守らなかったのは信長であるとはいえ、長政の妻は信長の妹・お市の方です。裏切りを知った時は「まさか」という思いだったはずです。

ただ、長政の方も信長の妹を妻にもらっておきながら「同盟破棄」をするのは相当の迷いがあったはず。両者の苦悩が見える戦いでもあります。

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実は徳川家康も参戦していた

 

浅井長政の裏切りに激怒した信長は、二か月後に20000の兵を引き連れて挙兵。長政のいる「小谷城」を攻めようとします。この戦いには、徳川家康も参戦。5000の兵を率いて、姉川へ陣取ります。その向こう岸には、城から出てきた浅井長政と、朝倉義景からの援軍・8000が陣をはり、互いににらみ合う格好になりました。

家康の家臣・榊原康政の活躍

ついに、両軍は激しい戦いに。最初は浅井・朝倉郡がおしていたようですが、両軍が縦にのびた形になっていることに気付いた家康は、家臣の榊原康政に「脇から攻めるように」と指示。これを聞いた榊原は、両軍の脇を狙う形で攻撃をはじめたたため、浅井・浅倉軍は総崩れとなります。

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信長・家康連合軍が浅井・朝倉軍を打ち破る

家康の作戦が功を奏し、戦は見事に信長・家康軍が勝利。この戦いで、浅井長政は実弟が死亡し、織田軍も森長可(森蘭丸の兄)や信長の弟が命を落とすなど、両軍ともかなりダメージを受けました。とはいえ、これでも浅井・朝倉軍はまだまだ力を残しており、信長と浅井・朝倉の戦いは続くのです。

姉川の戦いに参戦した主な戦国武将の家紋|織田・徳川連合軍

織田信長の家紋「織田木瓜紋」の意味・由来

現在だと家紋は「一つの家庭に1つの家紋」というイメージですが、実は織田信長は7つ家紋をもっていました。

織田信長の家紋織田木瓜について織田木瓜 織田信長の家紋十六葉菊について菊紋 織田信長の家紋揚羽蝶について揚羽蝶 織田信長の家紋永楽通宝について永楽通宝銭
織田信長の家紋五三桐について五三桐 織田信長の家紋丸に二引両について二つ引両紋 織田信長の家紋無文字について無の字

木瓜紋は、日本10大家紋としても知られる家紋で、多くの武将たちが使用していました。中でも、この「織田木瓜」は織田信長が使用していたということもあり、特別に知名度が高い家紋となりました。しかし、この「木瓜」が何を意味したものなのかは、いまだに解っていません。そのまま読めば「キュウリ」ですが、それとは形が全くことなります。

ただし、元をさかのぼれば公家が使用していたと言われていますので、格式が高い家紋であったことは間違いなさそうです。

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徳川の家紋「葵紋」の意味・由来

徳川家と言えば、やはり有名なのは葵紋でしょう。葵紋は数多くありますが、家康が使用していたのはこちらの「徳川紋」と呼ばれるものです。

ieyasu

「水戸黄門」でも、徳川家の葵紋をいれた印籠を手に「この紋どころが目に入らぬか!」というシーンが必ずあります。日本で有名な家紋のひとつですね。葵紋は加茂神社がルーツとされ、徳川家の家紋として江戸時代に使われていました。将軍家の権威を表す勲章として用いられ、家康が使うようになってからは徳川家以外の使用はご法度とされていたほどです。葵は神聖な植物として扱われ、立ち葵、二葉葵、水に立ち葵、剣に二葉葵、尻合わせ三葉葵など様々な葵紋がありました。家康は戦国前期頃に三つ葵を使用し、加茂神社の二葉葵をアレンジしたという説があります。家康は家康が新田一族の徳川に復姓してからも葵紋を使い続け、新田源氏を汲む加茂神社の氏子として権威を示すために葵紋にしたとも言われています。水戸黄門の「目に入らぬか」のシーンで持っているのも葵紋です。

織田・徳川連合軍の家紋をまとめてチェック

織田信長の家紋織田木瓜について織田信長 ieyasu徳川家康 kamon_r6_c8柴田勝家 kamon_r2_c6木下秀吉
039.fw丹羽長秀 角立て七つ割り四ツ目結紋佐々成政 kamon_r5_c6池田恒興 丸に酒井忠次
070榊原康政 kamon_r6_c2本多忠勝    

 

姉川の戦いに参戦した主な戦国武将の家紋|浅井・朝倉連合軍

浅井長政の家紋「三つ盛亀甲」の意味・由来を解説

家紋

亀は、「鶴は千年、亀は万年」と言われたように鶴に並ぶ長寿のシンボルの生き物として親しまれていました。平安時代に文様化されるようになり、家紋に用いられるようになったのは室町時代以降です。 亀にもいくつか種類がありますが、中でも特に縁起が良いとされ多く用いられたのは蓑亀(みのがめ)です。家紋として一番シンプルに描かれたのは光琳亀で、他に登り亀、下り亀、三つ追い亀などがあります。 風水では北方を護る玄武神として信仰されていました。 亀を使った家紋として他に「亀甲紋」があり、亀そのものではなく亀の甲羅をモチーフにした亀甲紋の方がより使用されていました。

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朝倉義景の家紋「三つ盛り木瓜」の意味・由来を解説

43.fw

木瓜とは中国で官服などに付いていた文様が、日本に伝来し社殿の御廉に用いられるようになったものが文様化したものです。木瓜は子孫繁栄を表し、縁起のよいものとされてきました。

五大紋の一つでもあり、北陸地方や東北地方で多く見られます。家紋として取り入れた家は多く、様々な種類の木瓜紋が考案されました。シンプルな木瓜をベースに、剣と合わせた剣木瓜、丸に木瓜、庵の中に入れた庵木瓜、縦に描いた立ち木瓜、菱形をした木瓜菱などバリエーションは豊富です。

公家では徳大寺家、武家では新撰組の沖田総司や佐倉藩の堀田氏、岡田藩の伊東氏、出羽の遊佐氏などが使用しています。

 

浅井・朝倉連合軍の家紋をまとめてチェック

mittsu3浅井長政 43.fw朝倉義景 029.fw藤堂高虎  

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まとめ

この戦ののち、結果的に浅井家は信長によって滅ぼされます。長政の妻だったお市の方は、三姉妹を連れて織田家に戻り、後に柴田勝家のもとへ嫁いでいます。裏切られたとはいえ、妹の夫と戦わなければならなかった信長の心中を思うと、やりきれない思いがしますよね。

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