「石山合戦」とは、織田信長と「石山本願寺」の本願寺顕如が戦った戦です。本願寺と言えば今は京都にありますが、当時は大阪にありました。信長と本願寺の戦いは10年にもおよび、浅井長政・朝倉義景などの信長と対立する大名や、雑賀孫市で有名な「雑賀衆」も加わり大掛かりなものとなりました。東軍・西軍の家紋と共に合戦を見ていきましょう。
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目次
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1分でわかる石山合戦
信長軍(戦力15,000人) | 本願寺軍(戦力10,000人) |
織田信長 | 顕如 |
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- 本願寺顕如と織田信長の対立~足利義昭の織田包囲網
京都・本願寺の本願寺顕如は、織田信長と対立していました。信長は顕如に「本願寺を出ろ」と命令しますが、これに顕如は激怒。各地に呼びかけ、信者たちに信長と戦うように要求しました。顕如の呼びかけに応じた各地の一向宗門徒が、「一向一揆」を起こして信長を苦しめます。 - 「織田包囲網」への参加
その時、織田信長と関係が悪化していた将軍・足利義昭が、武将らに呼び掛けて「織田包囲網」を作ります。顕如は、この「小田包囲網」に参加して信長と戦います。 - 戦いは10年以上も続きました
長い戦いの中で、石山本願寺は「籠城」のために村上水軍から物資を送ってもらっていました。信長は、この村上水軍を倒すことを計画。一度目は村上水軍に敗れるものの、二度目は鉄甲船を使って見事に勝利し、石山本願寺への物資を断つことに成功しました。これがきっかけで、とうとう顕如は信長に降伏。10年にもわたる長い戦いが終わったのです。
10年以上も続いた石山合戦
信長にとって邪魔だった宗教勢力
天下統一を目指す織田信長にとって、「宗教」は邪魔な勢力でした。なぜかというと、宗教というのは人の心を集めるものだからです。まして、京都・本願寺は浄土真宗でかなりの力を持っており、その代表の僧である本願寺顕如の存在は厄介でした。
足利義昭が本願寺顕如をはじめ武田信玄、朝倉義景、浅井長政らと「信長包囲網」を!
足利15代将軍・足利義昭との関係を強め、京都で権力を得た織田信長ですが、いつしか信長は義昭の立場を軽んじるようになり、両者の関係は悪化していきます。さらに、京都の本願寺をまとめていた本願寺顕如と信長の関係も良くなかったため、義昭は本願寺顕如をはじめ武田信玄、朝倉義景、浅井長政らの武将に声をかけ、織田信長を倒そうとします。これが「信長包囲網」であり、「石山合戦」のはじまりです。石山合戦は、なんと決着がつくまでに10年もかかりました。
本願寺顕如と信長
京都で力を持つようになった信長に、顕如は当初従う姿勢を見せていました。多額の軍資金を出せと言われたときも、渋る様子もなくすぐに出しています。しかし、要求はどんどん大きなものになり、最後には「大阪の石山本願寺を明け渡せ」などと言われてしまいました。これに顕如は怒り、将軍・足利義昭の呼びかけに応じることになったのです。
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顕如率いる一向一揆に苦しめられる信長
信長と戦うことになった顕如は、各地に対信長を呼びかけます。顕如の声に、各地の浄土真宗信者たちが立ち上がり、反信長の一向一揆をおこしました。この一揆に加え「天王寺の戦い」なども勃発したため、信長は苦戦を強いられることとなりました。
石山合戦は木津川口の戦いへ続く
長い戦いの中で、顕如は本願寺の中に立てこもっていました。この本願寺に、武器や食料と言った物資を届けていたのが村上水軍です。本願寺側との戦いを終わらせたい信長は、まず村上水軍を倒すことに決めます。(第一次木津川口の戦い)しかし、村上水軍と毛利水軍は、得意の「火攻め」で織田水軍を圧倒。村上水軍の勝利で終わりました。しかし、これで敗けっぱなしの信長ではありません。信長は、自分とつながりのあった九鬼嘉隆に「火に強い船を作れ」と命じます。
嘉隆は考え抜いた末に鉄甲船を造ることを思いつき、6隻もの鉄の船を完成させます。この船の効果は圧倒的で、村上武吉が率いた毛利水軍は太刀打ちすることができませんでした。食料や武器を受け取ることができなかった本願寺顕如は、2年後に織田信長に降伏。これにて、10年にも及ぶ石山合戦は幕を閉じたのです。
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織田信長の家紋「織田木瓜紋」の意味・由来
現在だと家紋は「一つの家庭に1つの家紋」というイメージですが、実は織田信長は7つ家紋をもっていました。
織田木瓜 | 菊紋 | 揚羽蝶 | 永楽通宝銭 |
五三桐 | 二つ引両紋 | 無の字 |
木瓜紋は、日本10大家紋としても知られる家紋で、多くの武将たちが使用していました。中でも、この「織田木瓜」は織田信長が使用していたということもあり、特別に知名度が高い家紋となりました。しかし、この「木瓜」が何を意味したものなのかは、いまだに解っていません。そのまま読めば「キュウリ」ですが、それとは形が全くことなります。
ただし、元をさかのぼれば公家が使用していたと言われていますので、格式が高い家紋であったことは間違いなさそうです。
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本願寺顕如の家紋「下り藤」を解説
本願寺顕如が使用していた家紋は「下り藤」です。
本願寺は「西本願寺」「東本願寺」以外にも各地にありますが、そのすべてがこの下がり藤を使っているわけではないようです。でも、本願寺と言ったらやはりこの家紋のイメージが強いですよね。
藤はマメ科のつる性落葉木本で、淡い紫色の花を咲かせ華やかな藤棚を作ります。古くから観賞用の花として親しまれ、繁殖力の強さから、めでだいとされる縁起の良い植物です。藤原氏が藤紋を用いたことで武家や庶民の家紋にも使用され、江戸時代には幕臣約160の家紋となったほど代表的な家紋です。石田三成や大久保利通も藤紋を使用していました。使用者は、公家では一条家、二条家、九条家、武家では本願寺氏、大久保氏、片倉氏、黒田氏、新庄氏です。また、「藤」の付く名字にちなんで安藤氏、加藤氏、内藤氏、藤井氏、佐藤氏なども使用しています。特に藤の葉を左右に伸ばし円型に描く藤丸や、十字形の八つ藤が人気となっていました。
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1578木津川口の戦い
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まとめ
10年にもわたり、織田信長と石山本願寺の間で続いた「石山合戦」。信長は一向一揆に苦しめられたほか、雑賀衆の鉄砲にも悩まされ、かなりの苦戦を強いられます。さらに、あの毛利輝元も織田水軍を交わして顕如に物資を届けるなど、対信長の包囲網はかなり強力でした。その戦を信長勝利に導いたのが、当時では斬新な大きな鉄の船であったということが、なんとも信長らしいです。
石山本願寺は、のちに秀吉の手で京都へ移され、新しく建てられるのですが、教団の内部は対立が激化していました。「関ヶ原の戦い」のあと、徳川家康の手を借りて分立し、大阪から移築された本願寺は「西本願寺」に、分立した方は「東本願寺」を名乗ることになります。
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