姉川の戦い|家紋で見る合戦シリーズvol.7

姉川の戦いと言えば、織田信長と浅井長政が戦った戦いとして非常に有名ですよね。

妹・お市の方の夫でもある浅井長政と織田信長は、どうして闘わなければならなかったのでしょう?

●1分でわかる姉川の戦い

・織田信長が朝倉義景を攻める

「姉川の戦い」のきっかけは、織田信長が朝倉義景という武将を攻めたことです。朝倉家と浅井家は強い信頼関係があり、浅井家の当主・長政は「朝倉家と戦うことになったら、自分に教えてほしい」と同盟相手の信長に言っていたほどでした。ところが、信長はその約束を破って、浅倉家を攻撃してしまうのです。

・信長の朝倉家攻撃を知った長政は激怒!

信長が約束を守らなかったことに激怒した長政は、織田家との同盟を破棄。兵をあげて織田軍に襲い掛かり、織田軍は朝倉軍攻めを切り上げて撤退しなければならなくなりました。もちろん、信長は大激怒。

・信長が長政の「小谷城」へ向けて挙兵

怒った信長は、その二か月後に長政の「小谷城」にむけて挙兵。ここに徳川家康も参加し、「姉川」という川を挟んで両軍の戦いが始まるのです。

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姉川の戦い

浅井長政との約束を無視して朝倉軍を攻める信長

浅井長政のいる浅井家と、朝倉義景の浅倉家は同盟関係にありました。浅井家は朝倉家に助けられたこともあり、良好な関係を保ってここまできたのです。

そのこともあって、婚姻関係で織田家とも縁があった浅井長政は「朝倉家を攻撃する時は、自分に知らせてほしい」と言っていました。

しかし、信長はその約束を守ることなく、朝倉義景を攻撃してしまいます。

信長が朝倉義景を攻撃した理由は、義景側に悪いところも多々あったのですが、「朝倉家を攻撃する時は知らせる」という約束を反故にされた長政は信長に不信感を抱き、織田家との同盟を破棄。

そして、織田軍を攻めて朝倉義景を助けます。あわや挟み撃ちの絶体絶命の危機の中で、信長は退却。ちなみに、この時に織田軍の「殿」を務め、退却に大きく貢献したのが羽柴秀吉です。この長政の行動が、織田信長を激怒させました。

浅井長政の妻・お市の方は信長の妹

浅井長政
織田信長は、まさか浅井長政が攻めてくるとは思わなかったでしょう。約束を守らなかったのは信長であるとはいえ、長政の妻は信長の妹・お市の方です。裏切りを知った時は「まさか」という思いだったはずです。

ただ、長政の方も信長の妹を妻にもらっておきながら「同盟破棄」をするのは相当の迷いがあったはず。両者の苦悩が見える戦いでもあります。
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徳川家康も参戦

ieyasu
浅井長政の裏切りに激怒した信長は、二か月後に20000の兵を引き連れて挙兵。長政のいる「小谷城」を攻めようとします。この戦いには、徳川家康も参戦。5000の兵を率いて、姉川へ陣取ります。

その向こう岸には、城から出てきた浅井長政と、朝倉義景からの援軍・8000が陣をはり、互いににらみ合う格好になりました。

 

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家康の家臣・榊原康政の活躍

榊原康政
ついに、両軍は激しい戦いに。最初は浅井・朝倉郡がおしていたようですが、両軍が縦にのびた形になっていることに気付いた家康は、家臣の榊原康政に「脇から攻めるように」と指示。

これを聞いた榊原は、両軍の脇を狙う形で攻撃をはじめたたため、浅井・浅倉軍は総崩れとなります。

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信長・家康連合軍が浅井・朝倉軍を打ち破る

家康の作戦が功を奏し、戦は見事に信長・家康軍が勝利。この戦いで、浅井長政は実弟が死亡し、織田軍も森長可(森蘭丸の兄)や信長の弟が命を落とすなど、両軍ともかなりダメージを受けました。

とはいえ、これでも浅井・朝倉軍はまだまだ力を残しており、信長と浅井・朝倉の戦いは続くのです。
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まとめ

この戦ののち、結果的に浅井家は信長によって滅ぼされます。長政の妻だったお市の方は、三姉妹を連れて織田家に戻り、後に柴田勝家のもとへ嫁いでいます。

裏切られたとはいえ、妹の夫と戦わなければならなかった信長の心中を思うと、やりきれない思いがしますよね。

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