関ケ原の戦い|家紋で見る合戦シリーズvol.29

戦国時代の終焉のきっかけとなった天下分け目の戦いこそ「関ケ原の戦い」

だれもが小学校や中学校でこの戦いを聞いたことはあるが実際には、その詳細については知っている人が少ないはず。

それもそのはず、日本人が大好きな織田信長豊臣秀吉、ライバル関係にあった武田信玄上杉謙信らが没後にあった戦なのですから。

さらに関ケ原の戦い自体は1日で終わった上に、登場人物が多かったり、裏切りが発生したり、政治的な裏話があったりと少し勉強したくらいでは語れないことも多いです。

今回はそんな関ケ原の戦いに参戦した戦国武将の家紋にスポットを当ててお伝えしていきます。

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1分でわかる関ケ原の戦い

1.早朝に戦いがスタート
東軍の井伊直政による鉄砲で開戦!スタート段階では三成率いる西軍が有利
2.小早川秀秋の裏切りで選局は東軍に
西軍だった小早川秀秋が裏切り、西軍の大谷吉継を攻撃。次々と他の武将も裏切る。
3.西軍が総崩れに
西軍の猛将の宇喜多秀家が負け始めて西軍の武将は敗北

 

豊臣秀吉の死後の豊臣家を運営した「豊臣五大老」と「豊臣五奉行」

豊臣秀吉の死後の豊臣家、そして日本を作ったのが「豊臣五大老」と「豊臣五奉行」です。関ケ原の戦いはこの「五大老」と「五奉行」とのいざこざから生まれた戦です

それでは「五大老」と「五奉行」を家紋と一緒に見ていきましょう。ちなみに五大老は武闘派グループです。五奉行は官僚派グループであまり戦いをおこないません。

 

豊臣五大老 VS 豊臣五奉行

 

 
五大老 家紋 五奉行 家紋
徳川家康 ieyasu徳川葵 石田三成 mitunarikamon大一大万大吉
前田利家 umebachi 梅鉢 増田長盛 masu枡紋
毛利輝元 hitotsuhoshi一文字に三つ星 浅野長政 marunichigaitakanoha丸に違い鷹の羽
宇喜多秀家 kenkata剣片喰 前田玄以 hanatachibana花橘
上杉景勝 uesugisasa上杉笹 長束正家 hanabishi花菱

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しかし、時代は皮肉なもので前田利家は亡き人になってしまい、家康と三成の関係は悪化するも豊臣家はそのバランスをとれなくなりました。五大老のトップの徳川家康と五奉行の石田三成はもともと仲が悪く、その仲裁にはいつも五大老NO2の前田利家がはいっていました。

ここからは後の徳川幕府を開く家康が豊臣家での立場を広げていき、実質の独り舞台となります。

 

時は1600年ついに関ケ原の戦いが

豊臣家の最有力者となった徳川家康は年始の挨拶として各大名に挨拶をさせるようにしましたが、それに五大老の上杉景勝(上杉謙信の養子)は反対しました。

これに怒りを噴火させた家康は「上杉家を謀反の疑いがある!」「お詫びの手紙をよこせ」といいつけました。
sekigahara 引用:http://shupo.jr-central.co.jp/

 

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直江状で事実上の戦線布告

それに対して当時の上杉家の重臣であった「直江兼続」は当時の天下人になりつつあった家康にたいして、

という返信をしました。これを読んだ家康は冷静に頭に来たと思います。この上杉家の重臣であった直江兼続からの返信は後に「直江状」と呼ばれます。というわけで関ヶ原の戦いの開戦です。

 

「東軍」徳川家康VS「西軍」石田三成

関ヶ原の戦いは1600に美濃の関ケ原で徳川家康を大将とする東軍と毛利輝元を大将とする西軍との戦いです。ちなみに毛利輝元は名ばかりの大将で実際には石田三成を中心として戦いは繰り広げられます。家紋にスポットを当てて東軍、西軍の参戦メンバーを紹介しておきます。

 

関ケ原の戦いでの東軍の戦国武将一覧


武将名 家紋名 詳細
徳川 家康 ieyasu徳川葵(とくがわおあい) 徳川家康の家紋について
伊達 政宗 %e4%bc%8a%e9%81%94-%e6%94%bf%e5%ae%97仙台笹(せんだいざさ) 伊達政宗の家紋について
加藤 清正 蛇の目家紋蛇の目(じゃのめ) 加藤清正の家紋について
本 多 忠勝 hutaba丸に立ち葵 本多忠勝の家紋について
福島 正則 丸に立ち沢瀉福島沢瀉(ふくしまおもだか) 福島正則の家紋について
池田 輝政

ikeda池田蝶

池田輝政の家紋について
藤堂 高虎

田中の家紋を画像で説明、蔦紋藤堂蔦紋

藤堂高虎の家紋について
井伊 直政 hikone彦根橘 井伊直政の家紋について
山内 一豊 %e5%b1%b1%e5%86%85%e4%b8%80%e8%b1%8a中輪に土佐柏 山内一豊の家紋について
細川 忠興 九曜紋九曜(くよう) 細川忠興の家紋について
最上 義光 織田信長の家紋丸に二引両について丸に二つ引き(まるにふたつひき) 最上義光の家紋について
加藤 嘉明 下がり藤下がり藤 加藤嘉明の家紋について
黒田 長政 左三つ藤巴黒田藤巴(くろだふじともえ) 黒田長政の家紋について
黒田官兵衛の家紋について
田中 吉政 右三つ巴左三つ巴 田中吉政の家紋について
前田 利 長 梅鉢梅鉢(うめばち) 前田利長の家紋について
浅野 幸長 %e6%b5%85%e9%87%8e%e5%b9%b8%e9%95%b7丸に違い鷹の羽(まるにちがいたかのは) 浅野幸長の家紋について
寺沢 広高 kani蟹紋 寺沢広高の家紋について
松平 忠吉 aoimittu丸に三つ葵 松平忠吉の家紋について
蜂須賀至鎮 %e8%9c%82%e9%a0%88%e8%b3%80%e8%87%b3%e9%8e%ae蜂須賀卍(丸に卍) 蜂須賀至鎮の家紋について
生駒一正 %e7%94%9f%e9%a7%92%e4%b8%80%e6%ad%a3生駒車 生駒一正の家紋について
筒井定次 umehachi梅鉢 筒井定次の家紋について
京極高知 平四つ紋平四つ目結い 京極高知の家紋について
織田有楽斎 odamokko織田瓜 織田有楽斎の家紋について
古田重然 %e4%b8%b8%e3%81%ab%e4%b8%89%e3%81%a4%e5%bc%95%e3%81%8d丸に三つ引き 古田重然の家紋について
有馬豊氏 arimatomoe有馬巴 有馬豊氏の家紋について
金森長近 uraumehachi裏梅鉢 金森長近の家紋について
 

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関ケ原の戦いでの西軍の戦国武将一覧

武将名 家紋名 詳細
石田三成 mitunarikamon大一大万大吉 石田三成の家紋について
大谷吉継 ootani向かい蝶 大谷吉継の家紋について
宇喜多秀家 kenkata剣片喰 宇喜多秀家の家紋について
島左近 sima三つ柏 島左近の家紋について
小早川秀秋 右三つ巴左三つ巴 小早川秀秋の家紋について
小西行長 yukinaga中結い祇園守 小西行長の家紋について
上杉景勝 上杉謙信竹に雀の画像上杉笹 上杉景勝の家紋について
長束正家 hanabishi花菱 長束正家の家紋について
真田昌幸 sanada7真田六文銭 真田昌幸の家紋について
島津義弘 shimazu島津十字紋 島津義弘の家紋について
安国寺恵瓊 takedahishi武田菱 安国寺恵瓊の家紋について
増田長盛 masu枡紋 増田長盛の家紋について
脇坂安治 wachigai輪違い 脇坂安治の家紋について
吉川広家 yoshikawa三つ引き 吉川広家の家紋について
毛利輝元 hitotsuhoshi一文字に三つ星 毛利輝元の家紋について
佐竹義宣 satake佐竹扇 佐竹義宣の家紋について
織田秀信 織田信長の家紋織田木瓜について織田木瓜 織田秀信の家紋について
長宗我部盛親 cyokosokabe3丸に七つ片喰 長宗我部盛親の家紋について
朽木元綱 yotume隅立四つ目結 朽木元綱の家紋について
毛利秀元 hitotsuhoshi一文字に三つ星 毛利秀元の家紋について
豊臣秀頼 goshiti五七の桐 豊臣秀頼の家紋について
島津豊久 shimadu丸に十字 島津豊久の家紋について
蒲生郷舎 taikaku 対鶴 蒲生郷舎の家紋について
明石全澄(てるずみ) gosanmaru竹丸に五三の桐 明石全澄(てるずみ)の家紋について
平塚為広 kame亀甲に梅 平塚為広の家紋について
戸田勝成 muttu離れ六つ星 戸田勝成の家紋について
小川祐忠 maruniomodaka丸に沢瀉 小川祐忠の家紋について
赤座直保 mit2丸に三つ目 赤座直保の家紋について
 

午前5時開戦!先陣は東軍の井伊直政

周囲は数メール先も見えないほどの濃霧に囲まれている状態です。先陣を切ったのは東軍の井伊直政で西軍の宇喜多隊をみつけるや発砲そのあとに福島正則隊も続きます。

その後石田三成隊に向けて東軍の黒田長政、細川細川忠興、加藤嘉明が続くも西軍の石田三成も善戦し、一進一退の攻防を繰り広げます。

 

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引用:http://shupo.jr-central.co.jp/

 

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西軍の島左近は黒田長政の銃撃で戦闘不能に

実はこの際に石田三成が最も期待していた戦力の一人でる島左近が関ヶ原の戦いは開戦早々に黒田長政の鉄砲隊の銃撃をまともに受けて重傷して戦闘不能になっております。

しかし、石田三成隊には未だ参戦せずにいる45000もの巨大戦力の毛利輝元隊と小早川秀秋隊が控えていました。兵力や布陣をみてもどう考えてもこのタイミングで石田三成は勝利を確信していたでしょう。

 

午前11時一転する戦局!西軍有利→東軍へ

石田三成が満を持して午前11時に南宮山にいる毛利隊(3万)と松尾山に布陣する小早川隊(1万5000)に開戦の狼煙をあげます。しかし、彼らは一向に動かない。

唖然となる石田三成「なぜ動かないのだ!」

 

南宮山の麓にいる吉川広家が邪魔で動けない毛利軍

西軍の毛利方の吉川広家は徳川家康との間に戦が始まったとしても戦闘に加わらないという約束をしていました。
実は吉川広家隊が陣取っていた場所がとてもおもしろく、彼は山の麓にいて、その山の頂上付近には毛利輝元隊が構えておりました。

石田三成の出陣要請があっても家康との約束で動かない吉川隊。
そして彼らが動かないと山から下りられない毛利隊。

出陣するためには吉川隊との同士討ちになるため、三成に対して「弁当食べているからは今は無理」と宣言する。後にこれは宰相殿の空弁当事件と呼ばれます。

 

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小早川秀秋の裏切り

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引用:http://shupo.jr-central.co.jp/

 

徳川家康と事前に寝返ることを事前に約束していた人物こと小早川秀秋。彼は、豊臣秀吉の養子で秀吉から寵愛を受けた人物でした。

一時は豊臣家の跡継ぎ候補でもあったようですが、のちに豊臣五大老の1人である「小早川隆景」の養子となり、「小早川家」を継いでいています。小早川家は西軍の総大将の毛利輝元の家臣でもあるので完全に西軍にいるべき人でした

ただし彼は、「石田三成が大嫌い!!」という訳で関ヶ原の戦いで西か東軍か迷っていました。しかし徳川家康からの煽りを受けて西軍の大谷吉継に襲い掛かります。

 

小早川秀秋の裏切りを予測していた大谷吉継

大谷吉継は石田三成の盟友で関ケ原の戦い以前より、小早川秀秋の裏切りを予測していました。なので小早川秀秋が裏切った場合には迎撃できるよう万全の配置をしており、
実際に小早川隊を迎撃しています。

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大谷吉継の誤算「裏切りの連続」

そんな小早川の裏切りを予測していた大谷にも誤算が生じます。西軍のはずだった小早川秀秋の裏切りに呼応され、他の大名も東軍に寝返ってしまったのです。

脇坂案治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱らの隊がが寝返るなら今だ!と言わんばかりに大谷善継めがけて攻撃を始めます。さらには藤堂高虎も参戦し、大谷隊は壊滅に。

 

チャンスを逃さない家康!関ヶ原の戦い終焉へ

大谷吉継隊が壊滅するのを見るやいなや、徳川家康が温存していた30000の兵をくり出して総攻撃を開始します。

これにより宇喜多秀家が周囲を囲まれて撤退します。孤立していく石田三成隊も壊滅し、三成は北国街道沿いにて斬首で西軍は敗戦。

これにて関ケ原の戦いは終焉を迎えます。振り返ってみれば、6時間あまりの関ヶ原の戦いは東軍・徳川家康の圧勝となりました。

 

 

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