織田信長が「美濃(今の岐阜県)」を手に入れるために行った「美濃攻略戦」。美濃の大名であった斎藤龍興と信長の関係や、家臣であった秀吉がいかに優秀であったかが見える戦です。さらに、現在でも人気がある「あの軍師」も登場!掘り下げれば面白い「美濃攻略戦」を簡単にまとめました。
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目次
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1分で分かる美濃攻略戦
織田軍 | 斎藤軍 |
織田信長 | 斎藤龍興 |
- 織田信長は斉藤道三を打ち破った孫の斉藤龍興を攻略
織田信長は「美濃(今の岐阜県)」を攻略しようとしていた。「尾張(愛知県)」を平定することに成功した織田信長は、次に「美濃(現在の岐阜県)」を攻略したいと考えていました。美濃の国を治める大名は、斎藤龍興(さいとう たつおき)。龍興は「下剋上」で美濃を手中に収めた斎藤道三の孫です。斎藤道三と言えば、織田信長の妻・濃姫(帰蝶)の父で有名ですね。
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美濃で事件が起きる!
そんな時、美濃で事件が起きる!龍興のお城だった「稲葉山城」という城を、斎藤家の家臣・竹中半兵衛が乗っ取る。後の天才軍師・竹中半兵衛の登場です!これをチャンスと見た信長は、美濃への攻撃を開始。 -
豊臣秀吉が「墨俣一夜城」を作り上げる
秀吉が一夜で作り上げた「墨俣一夜城」美濃を攻撃するためには、信長の軍の拠点となるような城が必要不可欠でした。そこで、信長は羽柴秀吉に命じて城を作らせます。秀吉は、上流で気を切らせ、それをひもで結んでイカダの形にして川に流し、下流にある「墨俣(すのまた)」という場所で解体→城を建てる材料にするという方法で、一夜にして「墨俣一夜城」を作り上げました。この城が、織田信長の拠点となったのです。 - 家臣たちに評判が悪かった龍興~信長が美濃を攻略へ
もともと家臣たちからの評判が良くなかった龍興。勢いに乗った織田信長軍の前になすすべもなく、敗北するしかありませんでした。これにより、織田信長は美濃を支配下にに置くことに成功したのです。
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斎藤龍興の家臣、竹中半兵衛の裏切りで始まった美濃攻略戦
美濃攻防戦は、美濃を治める斎藤義興の家臣・竹中半兵衛が裏切ったことがきっかけで始まった戦いのことです。半兵衛は、美濃の大名・斉藤儀龍(義興の父)から仕えていた軍師。義龍が織田信長から美濃を守ることができていたのは、半兵衛という優秀な軍師がいたからこそ、と言われています。ところが、半兵衛は義興の代になって稲葉山城を乗っ取り、斎藤家を裏切りました。
稀代の天才軍師が裏切ったことで、斎藤家は混乱状態に。この隙をついて、織田信長が美濃に侵攻します。
伝説の墨俣一夜城
美濃を攻め落とすにあたり、信長は「拠点となる城」を作ることを思いつきます。その城を作ることを命じられたのが、当時の木下藤吉郎。後の豊臣秀吉ですね。
藤吉郎は、川の上流で木を切ってイカダにし、それを下流に流して墨俣に届け、解体して城を作るというわざをやってのけました。この妙案のおかげで、一夜にして「墨俣一夜城」が完成したのです。
龍興の有力家臣が次々と裏切る
龍興の祖父・道三の代から、斎藤家では家臣の離反が絶えませんでした。その中で、龍興はさらに周囲から嫌われている人物を重用してしまったため、さらに家臣たちの反発を招いてしまいました。これがきっかけで、龍興のもとからは多くの家臣たちが去っていきました。
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信長が稲葉城攻めに成功
龍興の家臣たちが裏切ったことを知った信長は、稲葉山城を攻め、美濃を攻略。そして、稲葉山城は「岐阜城」へと名前を変えることになりました。
義興は伊勢長島に逃げ、その後も信長と闘いますが、最期は家臣に裏切られて討たれました。享年26歳。若すぎる死ですね。これにより、美濃を支配していた斎藤家は歴史から姿を消します。織田信長は岐阜城を作り直し、このころから「天下布武」と書かれた朱印を使うようになりました。この城の攻略が、信長に天下統一を決意させたのでしょう。
織田信長の家紋「織田木瓜紋」
現在だと家紋は「一つの家庭に1つの家紋」というイメージですが、実は織田信長は7つ家紋をもっていました。
織田木瓜 | 菊紋 | 揚羽蝶 | 永楽通宝銭 |
五三桐 | 二つ引両紋 | 無の字 |
織田信長の家紋「織田木瓜紋」
木瓜紋は、日本10大家紋としても知られる家紋で、多くの武将たちが使用していました。中でも、この「織田木瓜」は織田信長が使用していたということもあり、特別に知名度が高い家紋となりました。しかし、この「木瓜」が何を意味したものなのかは、いまだに解っていません。そのまま読めば「キュウリ」ですが、それとは形が全くことなります。
ただし、元をさかのぼれば公家が使用していたと言われていますので、格式が高い家紋であったことは間違いなさそうです。
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斎藤龍興の家紋「撫子紋」
斎藤道三は「二頭波紋」という独自の家紋を使用していましたが、孫にあたる龍興の家紋は「撫子紋」です。日本にも古くから存在した花である撫子は、その愛らしさから人々の目を楽しませており、いつしか家紋に使用されるようになりました。「秋の七草」の一種としても良く知られた花です。
斎藤龍興の祖父「斎藤道三」は二頭波紋
近年の研究で、斎藤道三は二人いたことが解っています。下剋上を繰り返して美濃の大名となった斎藤道三。
近年に研究が進み、「道三がやった」と言われていたことは「道三と父の二人でやったこと」であることが解っています。つまり、斎藤道三のやったことは、親子二代で成し遂げたものということですね。
道三は織田信長に濃姫(帰蝶)を嫁がせるなどして良好な関係を保っていましたが、彼が息子の義龍に殺されたことが、斎藤家と織田家の仲を悪化させました。また、道三はあまりに強引な方法で下剋上を行ったため家臣たちの多くが離反します。この負の遺産が、孫・義興まで響くことになってしまうのです…。
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斎藤龍興の父「斎藤義龍」
道三の嫡男として生まれた義龍ですが、道三は義龍を嫌って他の子供に家督を継がせたいと考えていました。その父のたくらみを知った義龍は、家臣たちと手を組んで道三と他の兄弟を討ちます。この時、ほとんどの家臣が義龍についたと言われていますので、道三がどれだけ嫌われていたかが解ります…。しかし、この義龍は若くして亡くなってしまいました。
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斎藤龍興の家臣「竹中半兵衛」
のちに豊臣秀吉の軍師として使える人物で、黒田官兵衛と共に「両兵衛」として有名な人物です。
美濃・斎藤家は、義龍の時代から何度も織田信長に狙われていますが、それを退けることができたのは半兵衛のおかげと言われています。稲葉山城を奪った半兵衛ですが、織田信長から「美濃の国を半分やるから城を明け渡せ」と言われても断り、城を義興に返して浅井長政のもとへ行きました。
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まとめ
織田信長と言えば「桶狭間の戦い」が非常に有名なのですが、この「美濃攻略戦」はのちの豊臣秀吉が注目されるようになった戦でもありますし、のちに天才軍師として秀吉に仕える竹中半兵衛が出てくるなど、戦国時代に活躍する武将たちが頭角を現す戦でもあります。
また、信長の城として有名な「岐阜城」の前身となる「稲葉山城」を手に入れたことや、この戦から有名な「天下布武」の朱印を使い始めたことを考えても、色々なことが動き出し始めた戦という感もありますね。美濃を攻略した信長は、天下統一に向けて駆け出していくのです。
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