厳島の戦い|わずか4000人の毛利元就軍が2万人の陶晴賢軍を撃破!家紋で見る合戦

厳島の戦いの家紋画像

戦国時代には、武将たちが自分たちの領土を広げるための戦をしていました。中には名将の冴えわたる知恵が見られる見事な戦もあり、その中で有名なものを「日本三大奇襲」と呼んでいます。

「日本三大奇襲」と呼ばれる戦は、以下の3つ。

  1. 河越城の戦い 北条氏康VS上杉家
  2. 厳島の戦い 毛利元就VS陶晴賢
  3. 桶狭間の戦い 織田信長VS今川義元

この中で、謀将・毛利元就の名を世に知らしめた「厳島の戦い」を解説します。

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1分でわかる厳島の戦いタイトル

毛利軍4000人 陶軍20,000人
毛利元就 陶晴賢
毛利隆元・吉川元春小早川隆景 弘中隆包


「周防国(山口県)」を中心に大きな勢力を誇っていたのが大内氏。その大内家の当主・大内義隆の家臣だった陶晴賢(すえはるかた)が、謀反を起こして嘉隆を討ってしまいます。この謀反の理由は、大内義隆があまり…な武将だったからだそうなのですが、とにかくこの裏切りで大内氏の内部はガタガタに。

そして、大内氏の実験を握った陶晴賢は、安芸(広島)の毛利元就を倒すことを考えます。陶軍20,000人VS元就軍4000人!正面から戦っても元就の軍勢では、勝つことは不可能でした。そこで、元就は策を講じます。

それは「大軍だと身動きがとりにくい場所.厳島に陶軍をおびき出せないか?」というものでした。ここから、謀将・毛利元就の知恵が冴えわたります。そして見事、毛利元就軍は勝利を収めます。

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厳島の戦いが勃発

陶晴賢が大内家当主の大内義隆を殺害

大内家の当主・大内義隆を、家臣の陶晴賢が殺害。義隆は政治そっちのけで遊びほうけていたので、それを嫌った晴賢が殺害したと言われています。しかし、義隆はある程度の人望があったこと、家臣である晴賢の裏切りが良く思われなかったことで、大内家は混乱します。ともあれ、これで晴賢が大内家の実験を握ることになりました。

元就の勢力を怖がった陶晴賢

毛利元就は、最初は陶晴賢の味方でした。なので、晴賢の方も元就のことを信頼し、領地などを与えて厚遇していたのです。

しかし、毛利元就の優秀さを感じるにつけ恐れるようになり、「与えた領地を返せ」と命じます。もちろん、元就がそれを受け入れるはずがありません。こうして、陶晴賢は元就討伐を決意したのです。

巧妙な作戦で晴賢を油断させた

陶晴賢の軍勢20000に対し、元就がもつ軍はわずか4000。まともに戦って勝てる相手ではないことは明白でした。そこで、元就が考えたのが「狭い厳島に晴賢をおびき寄せること」。ここから、元就の智略がさえわたります。

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村上水軍と毛利水軍との協力で陶晴賢を撃破

元就の策に乗った晴賢は、まんまと厳島にやってきます。しかし、厳島はとても小さな島だったので、晴賢の大軍はかえって動きがとれなくなってしまいました。そこに、背後から毛利軍が襲い掛かり、晴賢の軍は混乱状態に。船に乗って海に逃げようとした兵たちは、

元就に「一日だけ味方をしてくれ」と頼まれた村上水軍と、小早川隆景率いる毛利水軍によって討たれました。混乱の上、逃げ道もなくなった晴賢の軍は壊滅。晴賢は船の上で切腹をしてこの世を去りました。

毛利元就が謀将と呼ばれる所以は、この「厳島の戦い」にあると言っても過言ではないのです。

残りは尼子晴久のみ

大内家を継いだ大友義長攻め 

大内義隆が陶晴賢に殺されたあと、大内家は大友宗麟の弟・義長を当主として存続することになります。でも、その義長も元就は倒し、長く毛利家と関係のあった大内家はここで滅びることになります。これで、元就の敵は尼子家のみとなったのです。

毛利両川

毛利家と尼子家は、「石見銀山」という場所をめぐって何度も戦いを繰り広げました。しかし、その途中で尼子家の当主・尼子晴久が亡くなります。

そのあとを尼子義久という人物が継ぎますが、のちに元就に降伏。ここで、尼子氏も滅亡することになったのです。かつては毛利家の上にいた尼子氏・大内氏を滅ぼし、元就は中国地方の覇者となりました。

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27歳で毛利家を就いだ元就

毛利元就

毛利元就は、「安芸(広島)にある領主のひとつ・毛利家に生まれました。毛利家といえば、中国地方を制覇したイメージが非常に強いのですが、元就が生まれたときは「安芸」という小さな国の領主にすぎず、大内氏という大きな家の傘下でした。

しかも、元就は当主にならないはずの子供だったのです。父が死ぬと、元就は毛利家を追い出されてあばら家生活を強いられ、憐れんだ義母に育てられました。義母がしていた「朝日に向かって念仏を唱える」という日課を、元就も欠かさなかったそうです。

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周囲は有力大名の大内氏・尼子氏に囲まれていた

元就が当主になったとき、毛利家は「尼子氏」「大内氏」のふたつの大きな家に囲まれている状態でした。元就は、上京によって「尼子氏」「大内氏」の間を行ったり来たりしながら、勢力を拡大させていきます。

当初は大内氏に従った元就

元就が生まれた時、毛利家は「大内家」の傘下にいました。しかし、当主であった元就の父と、その跡を継いだ兄・興元が続けて亡くなると、跡を継いだのはまだ幼い興元の息子でした。

後見人がいたものの、毛利家は不安定な状況に陥ってしまいます。そんな時に、とある戦で毛利家は援軍を出さなければならなくなります。この援軍を率いたのが、元就。

20歳の遅い初陣でありながら、元就はみごとな智略を駆使して勝利をおさめ、その名を一気に広めました。この戦のあと、毛利家は大内家から尼子家へと傘下を変えました。

しかし、のちに元就が毛利家当主になることを「尼子家当主・尼子経久」が反対したため、尼子家との関係が悪化。これがきっかけで、元就は当主になってから大内氏の傘下へと戻りました。

毛利元就と3人の子供

毛利元就には何人かの子供がいますが、中でも有名な息子が「毛利隆元」「小早川隆景」「吉川元春」の三人です。

このうち、毛利家を継いだのは毛利隆元。後の二人は、名字が違うことでもわかる通り他家へ養子にいっています。元就は、子供たちを養子にやることで周囲の大きな家を傘下に収めようとしたのです。

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  長男 次男 三男
名前 毛利隆元 吉川元春の家紋吉川元春 小早川隆景小早川隆景
毛利輝元毛利輝元

関ケ原の西軍の総大将
吉川広家吉川広家

関ケ原で東軍の見方をする
小早川秀秋小早川秀秋(養子)

関ケ原の戦いで西軍を裏切る

次男の元春を吉川家の養子に

吉川元春の家紋

中四国地方の名門・「吉川家」の養子にいったのが次男・元春です。ほとんど乗っ取りのような形での養子入りだったようですね。

三男隆景を小早川家の養子に

毛利元就の三男・隆景は「小早川家」というところに養子入りしました。小早川家は、とても強い水軍を持っていることで有名な家です。元就は隆元を養子に出すことで小早川家の水軍を手に入れました。この隆景が率いた「小早川水軍」が、「厳島の戦い」で大活躍します。

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毛利元就の家紋「一文字三星紋」

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この家紋は、毛利家のみが使用している家紋で「一文字三星紋」と言います。三つの丸は星のこと。この時代、星は丸で描くことが一般的でした。

数字の一の下に、上から大将軍星・右将軍星・左将軍星という名前が付けられていて、これら三つをまとめて「三武星」「将軍星」とよぶこともあるとか。

同じ毛利家でも、本家と分家をしっかり区別していたという元就は、当時は「一」の書き方の違いで本家と分家の違いを表していたと言われています。

陶晴賢の家紋「唐花菱」

karahana

唐花菱紋は菱紋のバリエーションの一つです。菱形を四分してそれを四弁の花にとしています。唐花菱は中国唐朝で好まれた実在しない花を菱形にデザインしたものです。

菱紋は武田信玄の武田菱が有名ですが、武田氏は替紋として花菱も使っていました。

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