千葉県香取市には、以前「小見川(おみがわ)藩」という藩がありました。特徴としては一度廃藩となり、再度立藩するも維新前になると藩内で脱藩が起き、幕政は乱れてしまいます。
今回は、「小見川藩」の歴代藩主とその歴史・廃藩から再立藩の流れ・使用家紋などについてご紹介いたします。
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目次
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小見川藩ってどんな藩だったの?
小見川藩の基礎情報
石高 | 1万石 |
旧国 | 下総(千葉県) |
居城 | 小見川陣屋(香取市) |
藩主 | 松平(深溝)家~内田家の4家 |
家紋名 | 内田轡・内田久留子 |
江戸城控間 | 菊間広縁 |
格 | 陣屋 |
爵位 | 子爵 |
小見川藩の歴代藩主4家
小見川藩は、4つの家々によって藩主が務められていました。
小見川藩の藩主の変移
- 初代藩主……松平家忠
- 最後の藩主…内田正学
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立藩と廃藩、そして再立藩した小見川藩
小見川藩は下総国香取部(現在の千葉県香取市)に存在していた藩で、藩庁を小見川陣屋に置いていました。一度廃藩となるものの、再び立藩した小見川藩ですが、相次ぐ脱藩で幕政が不安定でした。
小見川藩の立藩
1594年、松平深溝家の4代目当主であり、「家忠日記」の著者として知られる松平家忠が、忍藩から移封される形で小見川藩が立藩しました。
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一度は廃藩となった小見川藩
初代藩主・松平家忠の後は、土井家・安藤家と藩主が変わっていきました。しかし安藤家の時代に藩は一度廃藩となります。所領は土井利勝の佐倉藩領として組み込まれてしまいます。
佐倉藩は江戸の東側に位置し、江戸を守るための重要な藩として幕政の要人たちが藩主となった大きな藩でした。幕府に重要視されており、12もの家が藩主となりますが幕府から信頼を得た人物によって支配されていました。
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佐倉藩領となっていた小見川藩の再立藩
佐倉藩領となった小見川藩領は、土井利勝が古河藩に移封となっても佐倉藩領のままでした。月日は流れ1639年、内田信正が8,200石加増の上、1万石の大名として諸侯に参列してたたため、小見川藩は再立藩となります。
小見川藩再立藩には諸説あり、正式に再立藩となったのは内田信正ではなく内田正衆の時代という説もあります。
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脱藩が起き幕政乱れた小見川藩
一度は廃藩となるものの再度立藩した小見川藩ですが、維新間近の時期になると藩内では脱藩が相次ぎ、幕政は乱れていきました。その後廃藩置県となり、小見川県や新治県を経たのち、千葉県に編入となりました。
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小見川藩の家紋は内田家の「内田轡・内田久留子」
小見川藩の家紋は、最終藩主である内田家の「内田轡」と「内田久留子」です。轡紋と久留子紋、それぞれの解説と詳細記事を確認してみましょう。
<轡紋の解説>
轡は、馬の口に装着する金具を指します。手で引く縄を付けるための道具で、「口輪(くちわ)」が変化して「轡(くつわ)」になったと言われています。 轡紋は平安時代頃の轡をデザイン化したもので、そのほとんどに十字型が入っています。そのため「十字紋」にも見えますが、全く別物になります。家紋としては尚武的な意味合いを持っても良いられることが多く、遠江の内田氏や、足利氏に仕えた大草氏が代表的な使用者です。また、大草氏と同じ一族である下田氏、後藤氏、浅井氏も使用していました。 轡紋には十字が入っていることから、キリシタン弾圧の際にカモフラージュとして使用した家もありました。
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<久留子紋の解説>
久留子紋は別名「十字架紋」で、その名前の通り十字架をモチーフとした紋です。「くるす」という名前は、ポルトガル語で十字架を「クルス」と言うことに由来しています。 キリスト教の伝来と共に武士の間でも改宗する者が増え、それと同時に家紋として用いられるようになりました。久留子紋に似ている十字の入った「轡(くつわ)紋」をキリシタンがアレンジして誕生したのが久留子紋です。 しかし、キリシタンの弾圧により使用が禁止されましたが、他のモチーフと組み合わせて使用し続けるものもいたようです。 天草四郎や小西氏、小見川藩の内田氏などに使用されていました。
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まとめ
「小見川藩」は、一度廃藩となるも再度立藩しましたが、維新前には脱藩が起きるなどして幕政はあまり良いものではありませんでした。
使用家紋の轡紋・久留子紋に関しては、デザインに十字が入っているためキリシタンも使用していたと言われている家紋です。是非それぞれの詳細解説記事もチェックしてみてくださいね。
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