甲斐(山梨)の武田信玄、越後(新潟)の上杉謙信が5度にわたりぶつかり合った「川中島の戦い」。中でも、もっともはげしい戦いとなった4回目を中心に「どんな戦だったのか」を見ていきましょう。
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目次
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1分でわかる川中島の戦い
武田軍(戦力21,000人) | 上杉軍(戦力18,000人) |
武田信玄 | 上杉謙信 |
武田信繁/武田義信/諸角虎定 /山本勘助/妻女山別動隊/飯富虎昌/馬場信春/高坂昌信/真田幸隆 | 上杉政虎/直江実綱/柿崎景家/甘粕景持/村上義清 |
戦死:武田信繁/山本勘助/諸角虎定 | 戦死:主な家臣では無し |
「川中島の戦い」で武田信玄と上杉謙信が戦ったことは有名ですが、それが5度にも渡ることはあまり知られていません。世間でいう「川中島の戦い」は、もっともはげしい戦いだった「4度目」を指しています。
武田家と言えば、武田信玄があまりにも有名なのですが、その弟にあたる武田信繁もかなり優秀な武将でした。信玄自身も、信繁のことをよく可愛がり絶大な信頼を寄せていましたが、この4度目の「川中島の戦い」で命を落としています。信繁の死を、信玄はとても悲しんだそう。この「信繁」という名前は、武田家の家臣・真田昌幸が自らの子供につけました。それがのちの真田信繁、つまり真田幸村です。5回戦っても、決着はついていません。5度も起きた「川中島の戦い」ですが、結局のところ決着はつかずに終わっています。
双方は「自分が勝った!」といっていたようですが、歴史的には「決着つかず」というのが本当のところのようです。拮抗した実力の二人が5度もぶつかり合い、それでも決着がつかなかったからこそ、二人は「ライバル」と呼ばれ、戦国時代のロマンを感じさせるのです。
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5回にもわたった川中島の戦い
「川中島の戦い」が行われた時期は、以下の通り。
- 1度目:1553年
- 2度目:1555年
- 3度目:1557年
- 4度目:1561年
- 5度目:1564年
実に、10年以上にわたって行われている合戦です。ただ、実態は「甲陽軍艦」という史料を頼るのみで、しかも「間違っている箇所がある」とも言われていることから、どんな戦だったのかはいまだにはっきりしていません。今後に、何らかの新しい史料が出てくることを期待したいですね。
最も激しかった4回の戦い
上杉謙信は妻女山、武田信玄は海津城
まず、上杉謙信は「妻女山」という山に陣をはりました。それを知った武田信玄は「海津城」というお城に移動し、別動隊に指示して「こっそりと謙信の軍の背後に近づき、そのまま攻撃する」という作戦をたてます。
武田信玄の別動隊が妻女山を攻撃
信玄の別動隊は、予定通り謙信の軍の背後に迫り、奇襲をかけました。ところが、そこには謙信の軍はおらず、上杉家の軍機と松明が燃えているだけだったのです。
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武田信玄の作戦を見破った上杉謙信
謙信は信玄の策略を見破っていました。謙信は、海津城からいつもよりたくさんの煙が上がることを怪しんでいました。この時代、城から煙りが上がるというのは「飯炊きをしている」という証拠。つまり、煙が沢山上がるということは、たくさんのコメを炊いているということになります。
つまり、別動隊を動かすので、その兵に持たせる握り飯を作っていると謙信は察知したのです。そして、軍旗とあかりだけを残し、山を立ち去っていたのです。
謙信の軍は、そのまま武田信玄のいる本陣に突撃。ここで、謙信は馬上から刀を振り下ろし、信玄が軍配で受け止めたという伝説が残っています。信玄を追い詰めた謙信ですが、妻女山から武田の別動隊が戻ってきたのを見て、引き上げました。
川中島で命を落とした武田信玄の弟・信繁
4度目の「川中島の戦い」は、とても激しい戦いだったようで、その証拠に両軍合わせて7000もの死者を出したと言われています。特に、武田軍では重臣も亡くなっており、その中には信玄の弟・信繁も含まれていました。
信繁は兄・信玄を守るために「影武者」として奮闘し、その中で亡くなったそうです。信玄は弟の死を聞いて泣き崩れ、敵の上杉謙信すら、その死を惜しんだとか。
信繁は家臣たちからの信頼も厚く、彼を慕っていた真田昌幸が息子に「信繁」という名前を付けます。この息子が、のちに「真田丸」で徳川家康を追い詰める真田幸村です。
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病で倒れる武田信玄
戦友の死を残念がった上杉謙信
ライバル・信玄の死の知らせを、謙信は食事の最中に聞いたと言います。謙信は思わず箸を落とし、「英雄とは武田信玄のことだ」と言い、泣いたとか。家臣たちが「甲斐を攻めては」と言っても、耳を貸すことはなかったそうです。
自らの死を3年間隠そうと知った信玄
52歳になった信玄は、病に倒れてしまいます。武田家のことを考え、信玄は「自分の死は三年かくせ」と家臣たちに命じたそうです。信玄が死んだと聞けば、周辺の敵国が責めてくるのを解っていたのでしょう。しかし、信玄の心づかいのかいもなく、亡くなったことはすぐにバレてしまったそうです。
武田信玄の家紋「武田菱」
武田家・武田信玄と言えばこの家紋ですね。武田家が使用していた家紋ですが、家によって中央の白い部分が狭まっているなど、違いもあるようです。ただ、武田家は多くがこの家紋を使用しており、そのことが「武田家の結束」にもつながっていたとか。
由来は、武田の「田」の形を変えたものという説と、源の義光が着用していた衣装に描かれていた菱紋を使用した、という説があります。
もう一つ、武田信玄が使用していた家紋が「花菱紋」です。
武田菱は多くの武田家が使用していますが、「花菱紋」は甲斐武田家が使い始めた家紋。この家紋は控え紋として使用しており、特に女性が好んで使用していたそうです。この可愛らしい形が、女性の優しさをあらわすのにぴったりだったとか。この花菱も、「槍無の鎧」に描かれています。
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上杉謙信の家紋「竹に二羽飛び雀(上杉笹)紋」
上杉謙信と言えば、「竹に二羽飛び雀」が非常に有名ですよね。この家紋は、「上杉笹」と呼ばれるほどに上杉家に定着しています。謙信は上杉家より家譜を譲られていますが、その時に一緒にこの家紋も受け取っています。
ちなみに、上杉家は伊達政宗の先祖にこの「竹に雀」の紋をおくっており、形は違いますが伊達家の家紋も「竹に雀」の紋になります。有名なこちらの紋ですね。
もうひとつ、上杉謙信は「五七桐」と呼ばれる家紋を所有しています。
あまりに有名すぎるこの家紋は、当時の天皇家の象徴とも言われる家紋でした(菊紋もそうですね)。後に豊臣秀吉もこの家紋を天皇から下賜され、自らも伊達政宗などの臣下に渡しています。
上杉謙信が五七の桐を使える理由
さて、どうして謙信がこの五七桐の家紋を使用しているのでしょう?それは、謙信が天皇に二度謁見していることが関わっていると言われています。
謙信が19歳で家督を継いだとき、真っ先に行ったのが「そのことを朝廷に報告する」ということでした。謙信は、後奈良天皇に「従五以下」「弾正少弼(だんじょうしょうひつ)」の地位をいただいているので、そのお礼を直接言いたいとも考えていた様です。
まとめ
「川中島の戦い」の実態はまだまだ謎に包まれていて、今言われていることもどこまで本当なのか分かりません。しかし、同じ相手と5度も戦うというのは、戦国時代でもそうそうないこと。切磋琢磨して闘い続ける姿に、憧れるファンも多いのでしょう。
余談ですが、この二人の子孫の代になり武田信玄の娘である菊姫が上杉景勝に嫁ぐ(天正7(1579)年)という形で親戚関係になっています。※謙信には跡継ぎがいなかったので、養子です。
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