川中島の戦い|家紋で見る合戦シリーズvol.4

甲斐(山梨)の武田信玄、越後(新潟)の上杉謙信が5度にわたりぶつかり合った「川中島の戦い」。

中でも、もっともはげしい戦いとなった4回目を中心に「どんな戦だったのか」を見ていきましょう。

●1分でわかる川中島の戦い

・「川中島の戦い」は5回行われている

「川中島の戦い」で武田信玄と上杉謙信が戦ったことは有名ですが、それが5度にも渡ることはあまり知られていません。世間でいう「川中島の戦い」は、もっともはげしい戦いだった「4度目」を指しています。

・この戦で、信玄は弟を喪っている

武田家と言えば、武田信玄があまりにも有名なのですが、その弟にあたる武田信繁もかなり優秀な武将でした。

信玄自身も、信繁のことをよく可愛がり絶大な信頼を寄せていましたが、この4度目の「川中島の戦い」で命を落としています。信繁の死を、信玄はとても悲しんだそう。

この「信繁」という名前は、武田家の家臣・真田昌幸が自らの子供につけました。それがのちの真田信繁、つまり真田幸村です。

・5回戦っても、決着はついていません

5度も起きた「川中島の戦い」ですが、結局のところ決着はつかずに終わっています。

双方は「自分が勝った!」といっていたようですが、歴史的には「決着つかず」というのが本当のところのようです。拮抗した実力の二人が5度もぶつかり合い、それでも決着がつかなかったからこそ、二人は「ライバル」と呼ばれ、戦国時代のロマンを感じさせるのです。

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5回にもわたった川中島の戦い

「川中島の戦い」が行われた時期は、以下の通り。

1度目:1553年

2度目:1555年

3度目:1557年

4度目:1561年

5度目:1564年

実に、10年以上にわたって行われている合戦です。

ただ、実態は「甲陽軍艦」という史料を頼るのみで、しかも「間違っている箇所がある」とも言われていることから、どんな戦だったのかはいまだにはっきりしていません。

今後に、何らかの新しい史料が出てくることを期待したいですね。
・武田菱
武田家・武田信玄と言えばこの家紋ですね。

武田家が使用していた家紋ですが、家によって中央の白い部分が狭まっているなど、違いもあるようです。ただ、武田家は多くがこの家紋を使用しており、そのことが「武田家の結束」にもつながっていたとか。

由来は、武田の「田」の形を変えたものという説と、源の義光が着用していた衣装に描かれていた菱紋を使用した、という説があります。
・上杉笹
上杉家に伝わる家紋「上杉笹」。

この家紋を伊達政宗のいる「伊達家」に渡したことが、「伊達笹紋」が生まれた由来になっています。
武田軍(戦力21,000人)  上杉軍(戦力18,000人)
 大将 shingen 武田信玄 上杉謙信の画像上杉謙信
 家紋 takedahishi武田菱  takenisuzume竹に二羽飛び雀/上杉笹
 家紋の解説  ●  ●
 

最も激しかった4回の戦い

上杉謙信は妻女山、武田信玄は海津城

まず、上杉謙信は「妻女山」という山に陣をはりました。

それを知った武田信玄は「海津城」というお城に移動し、別動隊に指示して「こっそりと謙信の軍の背後に近づき、そのまま攻撃する」という作戦をたてます。

武田信玄の別動隊が妻女山を攻撃

信玄の別動隊は、予定通り謙信の軍の背後に迫り、奇襲をかけました。ところが、そこには謙信の軍はおらず、上杉家の軍機と松明が燃えているだけだったのです。

武田信玄の作戦を見破った上杉謙信

謙信は信玄の策略を見破っていました。謙信は、海津城からいつもよりたくさんの煙が上がることを怪しんでいました。

この時代、城から煙りが上がるというのは「飯炊きをしている」という証拠。つまり、煙が沢山上がるということは、たくさんのコメを炊いているということになります。

つまり、別動隊を動かすので、その兵に持たせる握り飯を作っていると謙信は察知したのです。

そして、軍旗とあかりだけを残し、山を立ち去っていたのです。

謙信の軍は、そのまま武田信玄のいる本陣に突撃。ここで、謙信は馬上から刀を振り下ろし、信玄が軍配で受け止めたという伝説が残っています。

信玄を追い詰めた謙信ですが、妻女山から武田の別動隊が戻ってきたのを見て、引き上げました。

川中島で命を落とした武田信玄の弟・信繁

4度目の「川中島の戦い」は、とても激しい戦いだったようで、その証拠に両軍合わせて7000もの死者を出したと言われています。特に、武田軍では重臣も亡くなっており、その中には信玄の弟・信繁も含まれていました。

信繁は兄・信玄を守るために「影武者」として奮闘し、その中で亡くなったそうです。信玄は弟の死を聞いて泣き崩れ、敵の上杉謙信すら、その死を惜しんだとか。

信繁は家臣たちからの信頼も厚く、彼を慕っていた真田昌幸が息子に「信繁」という名前を付けます。この息子が、のちに「真田丸」で徳川家康を追い詰める真田幸村です。

 

病で倒れる武田信玄

戦友の死を残念がった上杉謙信

ライバル・信玄の死の知らせを、謙信は食事の最中に聞いたと言います。謙信は思わず箸を落とし、「英雄とは武田信玄のことだ」と言い、泣いたとか。

家臣たちが「甲斐を攻めては」と言っても、耳を貸すことはなかったそうです。

自らの死を3年間隠そうと知った信玄

52歳になった信玄は、病に倒れてしまいます。武田家のことを考え、信玄は「自分の死は三年かくせ」と家臣たちに命じたそうです。

信玄が死んだと聞けば、周辺の敵国が責めてくるのを解っていたのでしょう。

しかし、信玄の心づかいのかいもなく、亡くなったことはすぐにバレてしまったそうです。
■まとめ

「川中島の戦い」の実態はまだまだ謎に包まれていて、今言われていることもどこまで本当なのか分かりません。しかし、同じ相手と5度も戦うというのは、戦国時代でもそうそうないこと。

切磋琢磨して闘い続ける姿に、憧れるファンも多いのでしょう。

余談ですが、この二人の子孫の代になり上杉家・武田家は婚姻という形で親戚関係になっています。※謙信には跡継ぎがいなかったので、養子です。

 

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