「新田開発」とは土地を開拓して農耕ができる農地にすることですが、この新田開発にうんと力を入れて成功した「新発田(しばた)藩」という藩があります。
元々湿地帯だった土地を穀倉地帯に転換した新発田藩の藩主には、どのような歴史があったのでしょうか?
今回は、「新発田藩」の歴代藩主・溝口家と、新田開発・使用家紋などについてご紹介いたします。
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目次
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新発田藩ってどんな藩だったの?
新発田藩の基礎情報
石高 | 6万石 |
旧国 | 越後(新潟県) |
居城 | 新発田城(新発田市) |
藩主 | 溝口家 |
家紋名 | 溝口菱・五階菱 |
江戸城控間 | 大広間 |
格 | 城主 |
爵位 | 伯爵 |
新発田藩の歴代藩主
藩によってはころころと変わる藩主の家ですが、新発田藩においては溝口家のみとなっています。12代の溝口家によって統治されていました。
新発田藩の藩主の変移
- 初代藩主……溝口秀勝
- 最後の藩主…溝口直正
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低湿地帯ながら穀倉地帯へ転換した新発田藩
新発田藩立藩と領地の特徴
新発田藩の当地は、元々は越後大名であった上杉謙信が領有していました。その後関ヶ原処分にあたり家康率いる東軍に与することで、所領を安堵した豊臣家の臣・溝口秀勝によって新発田藩が立藩されます。
6万石の石高でしたが、その領地の広範囲は農耕業に不向きな低湿地帯でした。実質的な石高は6万石にも満たないほどの質の良くない土地だったのです。
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新田開発に尽力した藩士
新発田藩の領地の大半が農耕に向かない水草の生えた低湿地帯だったため、藩士たちと領民は干拓や治水など新田開発に力を入れます。長年にわたり開発を継続した結果、見事低湿地帯から穀倉地帯へと転換することができたのです。
石高6万石ほどの領地でしたが、実際の石高はそれをはるかに上回る30〜40万石だったとも言われています。この新田開発により、新発田藩は大きく反映することができたのです。
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戊辰戦争により「裏切り者」のレッテル
新発田藩は戊辰戦争の際、新政府方に恭順します。しかし周辺の諸般が奥羽越列藩同盟への加盟を迫り、やむを得ず加盟した経歴もあったため、新政府方に恭順し幕府方と交戦したことで奥羽越列藩同盟に参加していた他の藩からは「裏切り者」というレッテルをはられてしまいました。
明治維新まで続いた溝口家の統治
周辺の藩との間にはぎこちない関係が残っていた新発田藩ですが、その後明治維新まで溝口家によって12代にわたり継続し、自分らの手によって開発した穀倉地帯を活かし上手く統治し続けたのでした。
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新発田城は現在も残る「日本100名城」に
新発田藩の藩庁であった新発田城は、築城年は不詳ですが現在でも新潟県新発田しに残る名城となっています。築城後、何度か火災に遭い大きな被害を受けましたが、その度に再建されてきました。
その後城郭の復元が住民によって希望され2004年に復元、その年から一般公開されるようになります。そして2006年には「日本100名城」に選定されました。
- 時代・地域の代表であること
- 著名な歴史の舞台であること
- 優れた文化財・史跡であること
- 各都道府県から1城以上5城以内であること
- 環境保存状況や城郭発達史からの観点
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新発田藩の家紋は溝口家の「溝口菱・五階菱」
菱紋は、菱形の幾何学的な紋の総称です。古代から世界中で見られた文様で、植物であるヒシの実に由来していると言われていますが詳細は不明です。土器にも鱗と同様刻まれていることから、呪術的な意味もあったと考えられています。 家紋としては人気があった代表的な紋で、一つから最大で十六個の菱を組み合わせ、バリエーションは様々ありました。また、配列や向きを変えたものなどがあり、江戸時代には幕臣約150の家紋に用いられたと言われています。 有名なものは、甲斐源氏や信濃源氏一族に用いられた「割菱」、小笠原家の「三階菱」などです。武家の使用者は他に、高杉晋作、松前氏、武田氏、市橋氏、三好氏、大内氏、山口氏などです。
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まとめ
「新発田藩」は溝口家によって代々12名の溝口氏によって統治され、低湿地帯という農耕には不利な土地の新田開発に尽力した、努力の藩でありました。
実際の石高が6万石を超えるほどだったというのは素晴らしいですよね。上手く統治し領民を扱った藩主に腕があったのでしょう。溝口家の歴代藩主は、土地を変え繁栄させた凄腕の人物たちでした。
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