足利氏を祖とする家に「喜連川(きつれがわ)家」という家がありました。最終的には足利姓に復すのですが、喜連川家は「喜連川藩」を細々と支配します。
徳川家と特別な関係にあり、藩体制も他の藩とは異なる特別なものであったようです。一体どのような歴史だったのでしょうか?
今回は、「喜連川藩」の特殊な藩体制とその歴史・徳川家との関係についてご紹介いたします。
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目次
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喜連川藩ってどんな藩だったの?
喜連川藩の基礎情報
石高 | 5,000石 |
旧国 | 下野(栃木県) |
居城 | 喜連川陣屋(さくら市) |
藩主 | 足利家 |
家紋名 | 五七桐・五七の桐 |
江戸城控間 | なし |
格 | 陣屋 |
爵位 | 子爵 |
喜連川藩の歴代藩主
喜連川藩は、12代にわたり喜連川家に支配され続けていました。
喜連川藩の藩主の変移
- 初代藩主……喜連川頼氏
- 最後の藩主…足利聡氏 (足利姓に復姓)
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徳川幕府と特別関係にあった喜連川藩
喜連川藩は、下野国塩谷郡喜連川(現在の栃木県さくら市喜連川)に存在し、藩庁を喜連川陣屋に置いていました。石高は微々たるものでしたが、徳川幕府とは特別な関係にあったようです。
それには喜連川家の祖と関東地方が理由となっていました。どのような歴史があったのか、早速見てみましょう。
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名家・喜連川家による喜連川藩の歴史
喜連川藩を代々支配した喜連川家は、室町幕府を開いた足利尊氏の次男・足利基氏を祖とする名家です。足利氏を祖としていますが、「足利」の名字を名乗らず「喜連川」と称していました。
明治維新に至るまで喜連川家が代々12代にわたし支配し続けましたが、江戸時代において表石・実石共に1万石に満たない唯一の諸侯とされています。これは特例的な存在で、細く長く存続した藩と言われています。
喜連川家と徳川将軍家の特殊な関係
喜連川藩は、参覲交代については自主的に年に1度実施していましたが、表石に加え実際の石高も低かったため、軍役などの諸役義務は一切ありませんでした。
喜連川家の体制は特別なものであり、江戸幕府から受けてきた待遇は大名・旗本・交代寄合のいずれでもない上に幕藩体制の武士の身分統制にも当てはまらず、徳川将軍家との明確な主従関係もありませんでした。
そのようなふんわりとした状態でいられたのは、喜連川家の祖である古河公方が徳川家が関東入りする前に関東地方の権威ある支配者であったことが関係しています。
そのため幕府の喜連川家への姿勢は特別なものでしたが、時が経つにつれ江戸幕府の体制が安定してくると、喜連川家の重要性はそう高くはなくなりました。しかし、取り潰されることなく明治維新まで同じような関係性で存続していったと言われています。
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新政府への領地奉還と足利への復姓
12代継続した喜連川家による喜連川藩ですが、廃藩置県に先立ち領地を新政府に奉還し、日光県に組み込まれました。これにより喜連川藩は終わりを迎え、やがて日光県は宇都宮県▶︎栃木県へと変遷していきました。そして、喜連川家は祖である足利姓に復しました。
喜連川陣屋は今・・・
喜連川藩の藩庁となっていた「喜連川陣屋」ですが、現在は栃木県さくら市に跡地として「お丸山公園」となっています。当時の建物は何も残っていませんが、陣屋大手門を真似で建築された櫓門が建てられており、栃木県の中でも指折りの歴史的観光スポットとなっています。
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喜連川藩の家紋は足利家の「五七桐・五七の桐」
桐は高級木材として、菊紋についで天皇家や功績をあげた者の家紋として用いられました。その風習のはじまりは、後鳥羽上皇から足利尊氏が桐紋を賜ったことです。その後、桐紋が広く広まったのは皇室が臣下へ、下賜された武将が臣下へと付与したことによります。 桐紋は桐の葉と花を図案化したもので、一般的には3枚の葉の上に3本の花が描かれ、その花の数によって五三桐、五七桐など呼び名が異なります。 豊臣秀吉の家紋は太閤桐と呼ばれ、特定の一つの紋ではなく秀吉の遺品などに確認される桐紋のうち、独自のアレンジが入ったものの総称です。秀吉が家臣に与えたので西日本を中心に多く用いられています。
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まとめ
「喜連川藩」を細々と支配していた喜連川家は、祖が関東地方を支配していた権威者であったため、徳川家との特別な関係が成立していたのでした。
このような関係性の藩は他にはなく、あやふやなまま明治維新を迎えたのはとても特殊ですね。
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