【江戸幕府300藩】黒羽藩の家紋は大関家の「大関沢瀉・柊輪に沢瀉」|軍政改革に尽力し戊辰戦争で結果を挙げた

現在の栃木県には「黒羽藩」という名の藩がありました。大関家によって18代にわたり支配され続けた黒羽藩の特徴の一つに、「軍政改革に尽力したこと」があります。

兵の洋式化などを藩校で教え、最終的には戊辰戦争時に結果を発揮することとなった、小さいながらも安定した藩です。

今回は、「黒羽藩」の歴代藩主とその歴史・軍政改革と使用家紋などについてご紹介いたします。

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黒羽藩ってどんな藩だったの?

黒羽藩の基礎情報

石高 1万8,000石
旧国 下野(栃木県)
居城 黒羽城(大田原市)
藩主 大関家
家紋名 大関沢瀉・柊輪に沢瀉
江戸城控間 柳間
陣屋
爵位 子爵

黒羽藩の歴代藩主

▶︎大関家のみ◀︎

黒羽藩は、18代にわたり大関家に支配され続けていました。

黒羽藩の藩主の変移

  • 初代藩主……大関資増 
  • 最後の藩主…大関増勤

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18代にわたり大関家が支配していた黒羽藩

大関増勤 引用:wikipedia

黒羽藩は、下野国那須郡(現在の栃木県大田原市前田)に存在し、藩庁を黒羽城に置いていました。大関家により明治維新まで支配され続け、軍政改革に力を入れた藩でした。幕末にはその結果が出ることとなります。

徳川家からの加増により立藩

黒羽藩の藩主を明治維新まで代々務めた大関家は那須七党にも数えられ、豊臣秀吉による小田原征伐でも功績を挙げていました。初代藩主となった大関資増は、関ヶ原処分の際に徳川家から2万石を加増される形で黒羽に入封し、立藩となります。

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大関家による黒羽藩の歴史

4代目藩主・増親の時代には、弟の増君・増栄にそれぞれ1,000石を分与し、黒羽藩は維新まで1万8,000石の領地となります。歴代藩主は幕府の要職を輩出するなどし、小藩ながらも黒羽藩は幕政においてある程度の地位を確立しました。

また、15代藩主・増裕の時代には藩校の作新館を設立し、兵装の洋式化を進めました。具体的にはスペンサー銃というアメリカ産のライフル銃の導入でした。ちなみに、作新館という校名は勝海舟によって名付けられたと言われています。

幕政改革に積極的に取り組んだ増裕でしたが、31歳という若さで銃猟の際に死去します。増裕の子たちは全て早生していたため、養子が決定するまで増裕の死は極秘とされていました。そして急ぎで養子が増勤に決定し、黒羽藩の最終藩主となったのです。

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最終藩主・増勤による廃藩までの黒羽藩

増裕の死後に養子となった増勤は、黒羽藩の最終藩主となりました。戊辰戦争では新政府軍側に転じて幕府側と対立し、これまでの軍政改革の結果を会津戦争などで発揮して功績を挙げます。

その証拠に、幕府は増勤に永世賞典禄として1万5,000石を賞与として与えています。版籍奉還では黒羽藩知事となり、廃藩置県を迎えます。黒羽藩は廃藩となり、増勤は藩知事を免職、東京へ移ったのでした。

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黒羽藩の家紋は大関家の「大関沢瀉・柊輪に沢瀉」

沢瀉(おもだか)の「瀉」は見慣れない字ですが、水が流れ落ちる、そそぐという意味です。 沢瀉は水田や池や沢に自生する水草で、夏には三弁の白い花を咲かせます。葉は、Yの字を逆さにしたような形でくっきりと葉脈が見え、人の顔の形に似ていることから面高と呼ばれ、そこから面目が立つという意味を連想したとも言われています。 また、葉が矢尻の形に似ていることから、別名「勝ち草」「勝軍草」とも呼ばれ武士の家紋として広く使われました。平治物語の中には沢瀉鎧が源氏八領の鎧の一つと記載されています。袖に描かれた三角形の模様が沢瀉に似ていることからそう呼ばれています。

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まとめ

黒羽藩」は、18代の大関家によって支配され続けた歴史の長い藩でした。兵装の洋式化など、軍政改革に力を入れていた大関家ですが、その結果が戊辰戦争時に反映し、最終藩主である増勤は賞与まで得るほどでした。

このように一つの家により安定的に代々継承されてきた藩もありますので、是非いろいろな藩の情報をチェックしてみてくださいね。

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