【江戸幕府300藩】刈谷藩の家紋は土井家の「六つ水車・六つ槌車・六つ柄杓車」|巨額の借財に苦しみ幕末を迎えた

現在の愛知県刈谷市には「刈谷藩」という藩があり、その地はもともと徳川家康の生母の実家が所有していました。そこから始まった刈谷藩は22名もの人物が藩主となり、最終的には借財が膨れ上がった状態で幕末を迎えたようです。

今回は、「刈谷藩」の歴代藩主とその歴史・使用家紋についてご紹介いたします。

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刈谷藩ってどんな藩だったの?

引用:刈谷駅前観光案内所

刈谷藩の基礎情報

石高 2万3,000石
旧国 三河(愛知県)
居城 刈谷城(刈谷市)
藩主 水野家~土井家の9家
家紋名 六つ水車・六つ槌車・六つ柄杓車
江戸城控間 雁間
城主
爵位 子爵

刈谷藩の歴代藩主9家

水野家▶︎水野家▶︎松平(深溝)家▶︎松平(久松)家▶︎稲垣家▶︎阿部家▶︎本多家▶︎三浦家▶︎土井家

刈谷藩は9つの家によって支配されていました。

刈谷藩の藩主の変移

  • 初代藩主……水野勝成 
  • 最後の藩主…土井利敦

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巨額の借財に苦しみ幕末を迎えた刈谷藩

刈谷藩は、三河国(現在の愛知県刈谷市)に存在し、藩庁を刈谷城に置いていました。9つの家22名の藩主が入れ替わるよう変遷していましたが、土井家が最終藩主として落ち着くこととなります。

刈谷藩の立藩と所領の歴史

戦国時代、刈谷の地は徳川家康の生母・於大の方の実家である水野家が領有していました。初代藩主となったのは水野家の水野勝成で、関ヶ原の戦いにおいて東軍に与して功績を挙げたことから所領を安堵されました。

水野家の後は松平深溝家▶︎松平久松家▶︎稲垣家▶︎阿部家▶︎本多家▶︎三浦家▶︎土井家と計9家22名の藩主が入れ替わり刈谷藩を支配しました。

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所領没収された松平久松家の時代

数々の家が藩主となった刈谷藩ですが、松平久松家の時代に仏門に入った松平定政という人物がいます。3代将軍家光の死を受けて仏門に入り、旗本の救済に充ててほしいと2万石の領地返納を幕府に願い出ました

幕府側はこの申し出を「狂気の沙汰」と言い、所領没収の上に定政は永蟄居(えいちっきょ)となりました。

Q:永蟄居とは? A:中世から近世(特に江戸時代)武士または公家に対して科せられた刑罰のひとつで、閉門の上、自宅の一室に謹慎させること。

最終藩主・土井家の刈谷藩支配

刈谷藩はころころと藩主が変遷していましたが、最終的に土井家が入封したことにより落ち着き始めます。土井家は前任の三浦家にならい先納金制度を用い、諸村と領民が藩の赤字財政の負担を事実上肩代わりしていました。

これにより土井家は1万3,000石の領地替えに処され、刈谷藩の所領は城付額と陸奥国内の飛び地と2つに分割されたのでした。

やがて廃藩置県となるど刈谷藩は廃藩、刈谷県▶︎額田県▶︎愛知県と移り変わったのでした。

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刈谷藩の家紋は土井家の「六つ水車・六つ槌車・六つ柄杓車」

車紋は牛車の車輪をかたどったもので、牛舎は平安貴族の乗り物でもあったため「栄華の象徴」ともされていました。 家紋として用いられるようになったのは鎌倉時代で、幾何学的な美しさから人気がありました。 藤原秀郷流の佐藤氏族が家紋として使用したことをきっかけに全国に普及し、武家では柳原氏が使用しています。 江戸時代には車紋が「源氏車紋」や「車輪紋」と呼ばれていました。見て車輪とわかるようなデザインのものが多く、源氏車、榊原車、三つ割り重ね源氏車、陰源氏車などがあります。また、中には車輪全体を描いたものではなく、半分だけの生駒車という珍しいものも存在しています。

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まとめ

「刈谷藩」は9つのも家々が藩主となり、最期は土井家が9代にわたり支配しましたが、藩の財政は厳しく借財が膨れ上がっていたのでした。

家紋には縁起が良いとされる槌と、車紋を組み合わせた「六つ槌車」を使用しており、ベースとなている車紋にも様々な種類と由来があるので是非チェックしてみてくださいね。

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