かつて存在していた「藩」には、スムーズに立藩したものと明治維新の際にようやく正式な立藩として認められた維新立藩したものがありました。維新立藩した中に美濃国の「今尾藩」という藩があります。
今尾藩は徳川家ゆかりの家が藩主となり、10代にわたり存続しました。今回は、「今尾藩」の歴代藩主とその歴史・使用家紋についてご紹介いたします。
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目次
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今尾藩ってどんな藩だったの?
引用:シロスキーのお城紀行
今尾藩の基礎情報
石高 | 万石 |
旧国 | 美濃(岐阜県) |
居城 | 今尾陣屋(海津市) |
藩主 | 市橋家・竹腰家 |
家紋名 | 隅立て四つ目 |
江戸城控間 | なし |
格 | 城主 |
爵位 | 男爵 |
今尾藩の歴代藩主2家
今尾藩は2つの家によって支配されていました。
今尾藩の藩主の変移
- 初代藩主……市橋長勝
- 最後の藩主…竹腰正旧
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徳川家ゆかりの家が藩主務め維新立藩した今尾藩
今尾藩は、美濃国安八郡(現在の岐阜県海津市)に存在し、藩庁を今尾陣屋に置いていました。市橋家が領有していましたが、移動になると徳川家とゆかりのある竹腰家が藩主となります。正式に立藩となったのは明治維新の際ですが、竹腰家の藩主は家康から厚い信頼を受けて活躍したのでした。
今尾藩は維新立藩により正式に
今尾藩の正式な立藩は1868年の維新立藩と呼ばれるもので、それまでは尾張徳川家の附家老を務めた竹腰家の所領でした。維新立藩前は正式な藩とは認めらておらず、維新立藩は1867年の大政奉還後に立藩した藩のことを言います。
維新立藩は「維新後立藩」とも呼ばれていて、他に尾張国犬山藩があります。
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元々今尾の領地は今尾城を領した市橋家が拠点としており、関ヶ原の戦いで東軍についた市橋長勝は所領を安堵される形で矢橋藩に移動となりました。
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今尾藩藩主・竹腰家と徳川家の関係
市橋家と代わって入ったのが竹腰家です。竹腰家の初代藩主・正信は徳川家康に仕えた人物で、尾張徳川家の祖となった徳川義直は正信の同母弟という繋がりがありました。
正信は名古屋城の築城に尽力したことなどにより家康に気に入られており、1万石の加増を受けます。この1万石は後に維新立藩して正式な藩となった際に、義直に返上しています。
1万石加増された後も更に1万石を加増されて計3万石の大名となりました。正信は尾張藩の執政を任されるほど徳川家からの信頼が厚かったのでした。竹腰家は10代にわたり今尾藩の藩主を務め、版籍奉還を迎えたのでした。
今尾藩の家紋は竹腰家の「隅立て四つ目」
目結とは、布を染める時に布を糸で縛り、染料に浸しても染まらずに白く残る部分を指します。 平安時代に文様として人気となった後、鎌倉時代に家紋に転じて多用されました。江戸時代には、「鹿子斑」や「鹿子染」とも呼ばれています。 目結紋はこれを図案化したもので、正方形の中に一つ小さな穴が空いた姿で描かれています。一つのみ描かれることは少なく、複数の目結によって構成された紋が多数あり、三つ目、隅立て四つ目、など様々です。 近江源氏の佐々木氏が四つ目結を家紋に用いたことで全国的に広まったとされています。江戸時代には大名家や旗本を問わず、あらゆる家で使用されました。飯田氏や椎名氏が代表的な使用者です。
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まとめ
「今尾藩」は市橋家が移動となった後、徳川家とゆかりのある竹腰家によって藩主が務められていましたが、正式な立藩となったのは維新立藩の際で、それまでは1つの藩として認められていませんでした。
しかし竹腰正信は尾張藩に送り込まれるほど家康から信頼のあった人物で、見事活躍したのでした。
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