現在の新潟県村上市には、「村上藩」という藩主の遍歴が激しい藩がありました。始まりは村上家によるもので、そこから9つもの家々が藩主を務めました。しかし最終的には藩政は安定し、そのまま維新を迎えます。
今回は、「村上藩」の歴代藩主とその歴史・使用家紋などについてご紹介いたします。
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目次
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村上藩ってどんな藩だったの?
引用:村上市
村上藩の基礎情報
石高 | 5万石 |
旧国 | 越後(新潟県) |
居城 | 村上城(村上市) |
藩主 | 村上家~内藤家の9家 |
家紋名 | 下がり藤 |
江戸城控間 | 帝鑑間 |
格 | 城主 |
爵位 | 子爵 |
村上藩の歴代藩主9家
村上藩は9つの家によって支配されていました。
村上藩の藩主の変移
- 初代藩主……村上頼勝
- 最後の藩主…内藤信実
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村上藩の由来は立藩した村上家によるもの
村上藩は、越後国(現在の新潟県村上市)に存在し、藩庁を村上城に置いていました。立藩から廃藩までの間に9つもの家が目まぐるしく藩主となった村上藩は、最終的に内藤家が入封したことで安定した藩政を築きました。
村上家によって立藩した村上藩
村上藩は、村上頼勝が関ヶ原処分後の際に所領を安堵される形で立藩しました。頼勝は武田信玄とその覇権を争った猛将・村上義清の子で、立藩と同時に名称を「村上藩」と改めたことで始まった藩と言われています。
頼勝は城下町の整備や領内の検地を行い藩政の基盤作りに注力しますが、後を継いだ養子の忠勝が家中騒動を理由に改易されました。
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堀家による入封と村上藩廃藩
村上家が改易されたのに代わり、堀家の掘直寄が10万石で入封しました。村上城の拡張や更なる城下町の整備、領内の産業による藩政改革を試みますが、将軍家からの令により過大な常備兵力を維持するよう言われます。
そのため領内では検地を強化し、幕府に対し10万石のところ17万石と嘘の過大申告をしていました。堀家は3代にわたり村上藩を支配しましたが、後を継ぐ者がいなかったため廃藩となりました。
最終藩主は内藤家に落ち着いた
村上藩の廃藩後、本多家▶︎松平(越前)家▶︎榊原家▶︎本多家▶︎松平(大河内)家▶︎間部家と目まぐるしく藩主は変遷しました。最終的には内藤家で落ち着き、藩政は徐々に安定していきます。
内藤家は9代にわたり村上藩を支配し続け、廃藩置県を迎えます。戊辰戦争時には、佐幕派が実験を握ったことで幕府側に与しましたが、結果は惨敗で早々に降伏しました。
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村上藩の家紋は内藤家の「下がり藤」
藤はマメ科のつる性落葉木本で、淡い紫色の花を咲かせ華やかな藤棚を作ります。古くから観賞用の花として親しまれ、繁殖力の強さから、めでだいとされる縁起の良い植物です。 藤原氏が藤紋を用いたことで武家や庶民の家紋にも使用され、江戸時代には幕臣約160の家紋となったほど代表的な家紋です。石田三成や大久保利通も藤紋を使用していました。 使用者は、公家では一条家、二条家、九条家、武家では本願寺氏、大久保氏、片倉氏、黒田氏、新庄氏です。また、「藤」の付く名字にちなんで安藤氏、加藤氏、内藤氏、藤井氏、佐藤氏なども使用しています。 特に藤の葉を左右に伸ばし円型に描く藤丸や、十字形の八つ藤が人気となっていました。
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まとめ
「村上藩」は村上家によって始まり、そこから9つもの家がころころと藩主を務め目まぐるしい変遷がありました。しかし内藤家が入封したことで藩は安定し、そのまま維新まで存続したのでした。
藩によっては藩主が1つの家で代々受け継がれたり、村上藩のように激しい変遷があったりと色々なので、是非いろんな藩の藩主遍歴についても着目してみてくださいね。
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