【江戸幕府300藩】村松藩の家紋は掘家の「釘抜き」|領地の大半が山間部ゆえ厳しい藩政

「藩」があった時代には各地で新田開発が行われ、石高のアップに力を入れていましたが、中には土地柄新田開発が難しく、石高に伸び悩む藩もありました。そのうちの一つに越後国の「村松藩」があります。

今回は、「村松藩」の歴代藩主とその歴史・使用家紋などについてご紹介いたします。

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村松藩ってどんな藩だったの?

引用:幕末維新史跡観光

村松藩の基礎情報

石高 3万石
旧国 越後(新潟県)
居城 松村城(五泉市)
藩主 堀家
家紋名 釘抜き
江戸城控間 柳間
城主格
爵位 子爵

村松藩の歴代藩主

▶︎掘家のみ◀︎

松村藩は、12代にわたり掘家に支配され続けていました。

村松藩の藩主の変移

  • 初代藩主……掘直時
  • 最後の藩主…掘直弘

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山間部ゆえ厳しい藩政だった村松藩

村松藩は、越後国蒲原郡の村松・下田・七谷・見附地方(現在の新潟県五泉市)に存在し、藩庁を・村松城に置いていました。藩主は掘家が12代にわたり務めましたが、領地の大半が山間部ということで財政は厳しかったようです。

堀家による村松藩の立藩

村松藩には、事実上の率藩と正式な立藩があります。事実上の立藩は1639年、掘直時が3万石を与えられる形で入封した際です。それから子の直吉の代に陣屋を安田から村松に移し、正式な立藩となりました。

松村藩は山間部だったために…

村松藩は領地の大半が山間部という特徴があり、新田開発には向かないという難点を抱えていました。それでも新田開発に取り組みますが土地柄、石高の伸びはあまり良くありませんでした。

それゆえ村松藩の財政は厳しいもので、不安定な状況へと陥っていきました。8代目藩主の時代には財政改革という名目で百姓からの収奪が行われたため、村松藩全土の地域で百姓一揆が勃発したこともありました。

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生産業を奨励し藩政改革しかけるも…

9代藩主・直央の時代には城主格が与えられ、村松陣屋から村松城への改修が始まります。そして藩政改革に力を入れ、紙や織物・筆・お茶・村松焼きなどの生産業を奨励しますが、直央の後を継いだ10代藩主・直休が急死したことにより村松藩は再び不安定な藩政へと陥りました。

荒れた幕末期の村松藩

生産業に力を入れるも藩主の急死により再度不安定な状況に陥った村松藩は、幕末期になると尊王論が台頭し、村松七士事件が勃発します。佐幕派と改革派の藩士たちが分裂し、佐幕派の藩主らは米沢藩へと逃れる事態となったのでした。やがて村松藩は新政府に降伏したため所領を安堵され、廃藩置県を迎えたのでした。

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村松藩の家紋は掘家の「釘抜き」

釘抜きは大工道具の一つで、「九城(くぎ)を抜く」の語呂合わせとして家紋に用いられました。そのため戦いの連勝を祈願して、武士の間をメインにで使用されました。 もともとの大工道具である釘抜きは「座金」と「梃」の2つの道具を合わせて使うものの、家紋上ではそのほとんどが梃が省略された状態のものです。 釘抜き紋には、二つを絡ませた違い釘抜き、重ね合わせた重ね釘抜き、釘の中に梃を入れた木々抜きに梃子、丸の中に変わった形の梃を入れた丸に一梃釘抜きなどがあり、全国的に普及しました。 使用者は、江戸時代では久留米藩の有馬家、飯田藩の堀家などの大名や、武家である一柳氏、太田原氏などです。

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まとめ

新潟県に存在した「村松藩」は、2代の掘家により代々支配されていたものの、山間部が多いとう土地柄、藩の財政は厳しい状態が続いていました。zんどで百姓一揆が勃発するなど不安定な時代もありましたが、なんとか廃藩置県まで存続させたのでした。

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