【江戸幕府300藩】安房勝山藩の家紋は堺家の「剣片喰」|明治維新まで200年にわたり酒井家が支配

現在の千葉県にも複数の「藩」がありましたが、その中に約200年一つの家で代々支配し続けた「安房勝山(あわかつやま)藩」という藩がありました。

一度は廃藩となるも、2代目藩主・酒井家になると明治維新まで存続し続けた歴史ある藩です。

今回は、「安房勝山藩」の歴代藩主とその歴史・使用家紋などについてご紹介いたします。

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安房勝山藩ってどんな藩だったの?

引用:wikipedia

安房勝山藩の基礎情報

石高 1万2,000石
旧国 安房(千葉県)
居城 勝山陣屋(鋸南町)
藩主 内藤家・酒井家
家紋名 剣片喰
江戸城控間 菊間広縁
陣屋
爵位 子爵

安房勝山藩の歴代藩主2家

内藤家▶︎酒井家

安房勝山藩は、2つの家々によって藩主が務められていました。内藤家はわずか2代、それ以降は酒井家が10代にわたり支配し続けました。

安房勝山藩の藩主の変移

  • 初代藩主……内藤清政 
  • 最後の藩主…酒井忠美

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約200年にわたり存続した安房勝山藩

酒井忠美 引用:wikipedia

安房勝山藩は、安房国平郡(現在の千葉県安房郡鋸南町勝山)に存在していた藩で、藩庁を勝山陣屋に置いていました。初代藩主・内藤家の時代には一度廃藩するも、酒井家の時代になるとそのまま明治維新まで約200年にわたり存続し続けた歴史ある藩となりました。

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藩主・内藤家による短い時代

最初の立藩は、内藤家の内藤清政でした。佐貫藩の藩主を務めていた内藤政長が磐城平藩に移り、その所領が分割され、清政に3万石分け与える形で立藩します。

しかし清政は早くに亡くなり、その弟である正勝は幼少という理由で安房勝山藩は一時的に改易となります。やがて大きくなった正勝は安房勝山に再度入封しますが、兄同様若くして亡くなってしまうのです。これにより安房勝山藩は廃藩となりました。この間、安房勝山藩は小浜藩領となっていました。

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2代目藩主・酒井家により200年続く藩に

初代藩主の内藤家は2名の藩主が早世したことにより廃藩となりましたが、酒井家の酒井忠国を藩主に再立藩となります。ここから安房勝山藩は明治維新までの約200年、10代の酒井家により存続します。また、歴代藩主の多くは大坂加番や奏者番、大番頭などを歴任しました。

安房勝山藩から加知山藩へ改称

1869年には、安房勝山藩という藩名が「加知山藩」に改称されます。これは「美作勝山藩」や「越前勝山藩」との混同を避けるためでした。美作勝山藩は現在の岡山県に、越前勝山藩は福井県に存在していた藩なので位置的にはとても離れていましたが、同名ということで安房勝山藩が改称したのでした。

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幕末期には乱れた幕政

酒井家によって存続されてきた安房勝山藩は、最終藩主・忠美がわずか3歳で家督を継いだため、藩内の意見がまとまらずに佐幕派と尊王派が分かれた上やいのまま戊辰戦争に突入しました。

最終的には新政府側に恭順し、忠美は加知山藩の藩知事となり、廃藩置県により加知山県知事となりました。やがて廃県になると免職となり、加知山県は木更津県に再編され千葉県へと変遷していきました。

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安房勝山藩の家紋は酒井家の「剣片喰」

片喰はカタバミ科の多年草で、道端などに生えている小さな葉の植物です。繁殖力や生命力の強さから「子孫繁栄」の意味を持ち、古くから公家や武家の家紋に用いられていました。 鎌倉時代には家紋として車に使用されていたことがわかっています。家紋への使用例が非常に多く、特に徳川時代に急増しました。江戸時代に家康が葵紋を使用したことで、葵紋は使用が禁じられましたが、その際に葵紋から片喰紋に切り替える者も多くいました。その当時、約160家が片喰紋を使用していたこともわかっています。 公家の使用者は冷泉家、大炊御門家、武家では酒井氏、森川氏、成瀬氏、宇喜多秀家、長宗我部氏などです。

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まとめ

安房勝山藩」は内藤家の死去によって一度は廃藩となるものの、酒井家になると明治維新まで約200年も存続した歴史ある藩となりました。

途中、同名藩が複数できたことから改称したのも特徴の一つです。是非歴史ある安房勝山藩の家紋についてもチェックしてみてくださいね。

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