伊勢国に存在した「菰野藩」は、立藩から明治維新を迎えるまでに一度も領民による一揆が起こらなかった穏やかな藩でした。その秘密には、年貢徴収のゆるやかさが関係していたようです。
今回は、「菰野藩」の歴代藩主とその歴史・使用家紋についてご紹介いたします。
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目次
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菰野藩ってどんな藩だったの?
引用:攻城団
菰野藩の基礎情報
石高 | 1万5,000石 |
旧国 | 伊勢(三重県) |
居城 | 菰野陣屋(菰野町) |
藩主 | 土方家 |
家紋名 | 丸に左三つ巴 |
江戸城控間 | 雁間 |
格 | 陣屋 |
爵位 | 子爵 |
菰野藩の歴代藩主
菰野藩は、土方家によって支配されていました。
菰野藩の藩主の変移
- 初代藩主……土方雄氏
- 最後の藩主…土方雄志
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年貢優しく一度も一揆が起こらなかった菰野藩
菰野藩は、伊勢国三重郡(現在の三重県三重郡)に存在し、藩庁を菰野陣屋に置いていました。土方家が13代にわたり支配した菰野藩は、後期の藩主が放漫だったことで財政が逼迫した時期もありますが、その後見事藩政改革に成功して維新まで存続したのでした。
家康暗殺計画に関与?菰野藩の立藩
菰野藩は土方家によって13代にわたり支配された藩ですが、藩主となったのは土方雄氏です。幻と言われた家康暗殺計画に関与したとして一時は常陸国太田藩に追放されますが、翌年にはその疑いが晴れて領主に復帰します。
家康暗殺計画に関わったと疑われた雄氏ですが、その後は家康に恭順し、関ヶ原の戦いでは戦功を上げて1万2,000石を与えられる形で菰野藩主にとなりました。これが菰野藩の立藩です。
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一揆もなく安定的な菰野藩
藩主となった雄氏に続き、2代目藩主の雄高は陣屋と城下町の整備に尽力し、また商工業者を招いて東町・河原町を新設しました。また、藩の体制を整備して藩の基盤作りを強化しました。
前半の菰野藩藩主たちは藩作りに真面目な姿勢で臨んでいましたが、後半の藩主たちは少し怠惰なところがあり、藩の財政は厳しいものとなりました。菰野藩の財政が逼迫していく中、9代藩主・義苗が米の積み立てなどの事業に取り組み、見事藩政再建を成功させます。
藩によっては財政難の際に百姓一揆などの騒動が起こるものですが、菰野藩では年貢徴収が厳しくなかったため明治維新を迎えるまで一度も一揆が起こっていないという特徴があります。
やがて廃藩置県を迎えると菰野藩は廃藩、菰野県▶︎安濃津県▶︎三重県へと変遷していきました。
菰野藩の家紋は土方家の「丸に左三つ巴」
巴は古代から世界各国に似たような文様があり、発祥は定かではないものの日本では縄文時代から存在していました。 巴は元々弓を弾く際に腕を保護するための武具で、それが後に渦を巻く文様として浸透しました。文様として使われ始めたのは平安時代で、戦国時代には武家によって多く使用されます。特に現在の栃木県である下野宇都宮の一族に多用されていました。そして江戸時代になると約350の家が巴紋を使用し、全国各地で見られるようになります。 巴紋の種類は豊富で、渦を巻く向きの違いや巴の数、大きさなどに違いがあります。具体的には右一つ巴、左渦巻き巴、右五つ巴、台巴などです。人気の家紋であるため、使用者は多数います。
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まとめ
「菰野藩」スタートは家康暗殺の疑いをかけられた土方家の人物によるものでしたが、その後藩の基盤作りに尽力し、一度も一揆が起こらない穏やかな藩でありました。一度は財政難に陥るも見事藩政改革を成功させた9代藩主は相当な努力家だったのでしょう。是非他の藩の歴史についてもチェックしてみてくださいね。
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